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カテゴリー  [資格・教育・いじめ ]

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桜宮高校の部活中止の是非 

部活の中止が、体育科の生徒にとって軽くない問題であることは論をまたない。
入学した最大の目的が果たせないし、進学にも影響はあるでしょう。
保護者側が部活中止に反対するのも心情的には大いに分かる。
橋下市長を始め、部活中止の賛成派だってそのことは分かっているはずだ。

でも、やはり、部活は中止にすべきだ。
なぜなら、学校というのはあくまで人間教育の場であるからだ。
高校は進学や就職するための単なる手段ではない。
手段という側面があることは否定しないが、
それだけで3年間を過ごすなら、結局ろくな大人になりはしない。

建前でも綺麗事でもなく、
人間教育こそが高校教育の眼目でなければならない。

大人になれば、
教師になったり、企業人になったり、
あるいは、親にもなっていく。
いずれにしても人間を相手にしていくことになり、
何かしらの影響を与えていくわけだ。
特に教師になろうというのであれば、なおさらだ。
高校側としては、
学習やクラブ活動、委員会活動などを通して、
あくまで人間教育に努めるべきである。

桜宮高校の保護者は、
我が子が進学や就職の面で苦労するのを心配されているのであろう。
しかし、最も心配すべきことを等閑に付して
部活再開や顧問残留を叫んでいるようでは、社会の理解はいつまでも得られない。
そもそも進学できれば、就職できればいいってもんじゃない。

中高時代に粗悪な教育を受け、悪事・悪習慣や歪んだ自己主張を社会に撒き散らすような人間になってしまえば、社会もいい迷惑だが、本人も結果的にはその報いを受けて不幸になろう。

我が子を可愛いと思うのであればこそ、
進学や就職にこだわり過ぎることなく、
豊かで真に有益な学校生活が送れるように導いてあげるべきだ。
桜宮高校の例でいうなら、
まず一時的な部活中止は当然にやむを得ない措置だ。

例えば、飲食店である料理人がある特定の料理を作って食中毒を引き起こしたとする。
食中毒になったのは客の一人に過ぎないが重篤な症状になったとする。
この場合、通常は数日(場合によりもっと長期)の営業停止処分を受ける。
すべての料理人が仕事ができない状態だ。
他の料理なら出していいということにはならないし、
他の料理人による料理なら問題ないということにもならない。
店全体が停止させられるわけだが、これを不当という人はいないだろう。

桜宮高校のOB、保護者や一部の生徒は、これを不当と言っているようなものだ。
学校への思い入れが強すぎて、客観的に自己を見つめられていないと思う。

関係ない生徒の部活動まで中止するのは暴挙だ、というのであれば、
上の例でいう「他の料理人」による「他の料理」まで出せなくするのも暴挙ということになる。

問題とされているのは、
特定の教師による特定の行為ではなく、
学校の教育体制であり、学校の体質だ。

進学に影響が出てしまう生徒については、
気の毒に思う気持ちはあるけれど、
仕方がないと諦めて次善の策を練ることをお勧めする。
仕方がないものは仕方がないのだ。


前回書いた記事「桜宮高校の在校生へ 」もよかったら読んでみて下さい。


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桜宮高校の在校生へ 

<生徒の声>

入試中止や教員の総入れ替えを求める橋下市長に対して。

『 市長から大切な学校を侮辱され、
多くの生徒が傷ついた。
私たちの先生を奪わないで。』


入試中止の決定をした教育委員会の会合のあとで記者会見した桜宮高校の在校生の声
(運動部のキャプテンを務めた3年生の男女8人)

『 桜宮高校の体育科などに魅力を感じて受験を
希望していた人がほとんどだと思うので、
普通科に変えるのはとても残念です。
入試のやり方を変えればいいというわけでなく、
在校生の私たちも納得できません。』

『 このまま自分たちの大切な後輩を残して
卒業できないので、体育科として入学試験を
行うよう求めるとともに、桜宮高校の
すべての先生を人事異動で入れ替えないでほしい。』
(以上、ある女性徒)


21日朝の橋下市長による説明に対する声。

『 私たちの話を十分に聞いてくれなかった。
大勢の生徒の前ではなく、少人数で対話してほしい。』



うーん。
子どもたちの気持ちも分からんこともないけど、どうにも近視眼的だ。
入試のやり方も変えず、教師も入れ替えず、体育科も残すってことになれば、ほとんど何も変えないことになってしまう。何も変える必要がないってことなのか?

「入試のやり方を変えればいいというわけでなく、在校生の私たちも納得できません。」というが、じゃあどうすればいいと思うのか? 代替案は?



この問題は、例えて言うなら、離れと母屋がある一軒家で、離れが火事になってしまったようなものだ(母屋が普通科、離れが体育科。)。火事は発見されたが、まだ消火の途中の段階。

ところが、その離れの住人が、
「友人呼んで誕生会やる予定なんだから、とにかく使わせてよ!今更変更なんか絶対にできない!」とか、
「こもってテスト勉強するんだから、入らせてよ! もしテストの成績が悪かったら、責任とってくれよな!」とか、言っているわけだ。

その住人にとっては、離れは燃えていないように見えるのでしょう。
実際には、まだ燃えていて消火作業中なのに。

橋下氏は、上の例で言うなら、
「火が消えていないのに、中に入るなんてとんでもない!」という感じ。

一方、桜宮高校の生徒は、
「火事っていたって、ボヤ程度でもう消えてるよ。入らせないとか意味がわかんない!」という感じでしょうか。

さて、どちらが正しいのか?



私は、やはり前者だと思う。
火はボヤなどではなく、まさにまだ燃えている状態。
いかに重要な用事があろうと、燃えている離れに入らせるわけにはいかない。

こんな言い方をすると在校生の、特に体育科の在校生の人達を傷つけるのかもしれませんが、別に生徒たちがどうだこうだと言うつもりは毛頭ない。

誰かが悪いとするならば、それは教師であり、OBであり、保護者であり、あるいは、教育委員会や行政であろう。見て見ぬふりも同罪などという理屈を、教師などの大人には当てはめるのはよくても、子どもたちに当てはめるのはさすがに酷だ。

生徒が環境を変えるというのは、おそらく至難の技。
2年間暴行の記録を取りつづけた生徒がいたというのも、
実際、それぐらいしか抵抗の手段がないからでしょう。

基本的には生徒たちは今回の事件の被害者だ。



しかし生徒たちに言いたい。

冒頭に掲げたような言葉が出てくるのは、
頭でとことん考えた結果ですか?
どこか感情的になってはいませんか?

批判や侮辱をされることへの単なる反発心が少なからずありませんか?



通っている学校、あるいは通っていた学校というのは、
学生にとっては、人生の道のりを歩んでいくための一時的な乗り物にすぎない。

言ってみれば、川を渡るいかだのようなもの。
川を渡る際には大いに使えばいい。
しかし、渡ってしまえば、前を見なければいけない。

学校と一心同体のような心境でいると、
学校が侮辱された場合に、自分もひどく傷つく。
逆に、学校が高い評価を受けた場合に自分が褒められたような気になる。

でも、学校=自分じゃない。
学校の一部でもなければ付属物でもない。

学生にとって、学校の存在はでかいでしょうから、
つい一心同体的な感覚になりがちでしょう。
ましてや、そこそこの愛校心があるような生徒たちは、
なおさらだ。

愛校心を否定しているんではなく、
愛校心ゆえに過度に学校と自分を同一視することを否定したい。

この現象はどこでも見受けられるありふれたものですが、
結果的には自分を苦しめることが少なくないと思う。

旦那が超一流会社であることを鼻にかける妻とか、
家が金持ちなのを自慢する子どもとか、ちっとも幸せには見えない。

学生には、外見、出自、学歴、職業、裕福さなどの外部的なものが放つ光が、さほど美しいものではないことを分かって欲しい。本当に美しいのは、そういったすべてを失ってもなお内側から発せられる光だ。



その光は、学校が侮辱されても廃校になっても、
決して消えることのない光だ。





強くあれ。 


人はみな無神経だ。

子供ができない人がいる席で、子供が可愛いとのろけたりする。

仕事が上手くいかない人のいる席で、医者の年収はやっぱり多いとか平気で言う。



無論、私も無神経なところはあるけど、

無神経な言葉に人一倍悲しんできた口でもある。

そんなだから、相手の状況をなるべく思いやって言葉を発したいと思うのだ。



自分がしてほしくないことは、他人に対してしなくなるものだ。

これは人間の自然な心理なのだろう。

悲しみの多いほど人に優しくなれるというのは、そのとおりだ。



いじめを受けたことがある人が逆にいじめる立場に移るというのは、

わりとよく聞く話だけれども、

それは、たいしたイジメでなかったからだろう。

凄惨なイジメを受けた経験のある人は、決して他人をいじめたりしない。

何故かというと、いじめられることの辛さをリアルに想像できてしまうからだ。



悲しみの数だけ人は優しくなる。

そして、無神経な言葉や態度を受けた経験は、きっと人生にプラスになる。



だから、周囲の者の無神経で無理解な言動に苦しんでいても、悲観的になることはない。

そのようにされることの辛さを教わっていると思えば、

その周囲の者も観音様のように思えてくるものだ。



どんな人にも仏性があるというのがお釈迦様の教えでありますが、

これほど真意が伝わっていない教えというのも珍しい。

創価学会員に特に言いたいけど、たとえ法主日顕であっても仏性があるのだ。

強盗強姦の上、殺人に至った罪人であっても、なお仏性は存するのである。

「罪を憎んで人を憎まず」ということになりますが、

これは、キリスト教の教えとも一致するものなのです。




どんな罪人でも救われるということが、キリスト教の根本であり。

そしてまた、仏教、特に法華経の精神なのです。

日顕憎しで凝り固まってる学会員には、猛省を促したく思います。




脱線してしまったかな?

言いたいのは、

どんなに冷たく無神経な言葉を浴びせられても、前向きでいろということです。

その辛い経験は大きな財産になるはずです…。


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