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カテゴリー  [聖書・仏典の言葉 ]

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般若心経&第二の矢について 

今日の夕方、スクーターに乗りながら般若心経を唱える私がいた。

いろんな悩みに押しつぶされそうになり、

でも自暴自棄になるわけでもなく、

必死に心のバランスを取り戻そうとあれこれと自分の考え方を検証するも答えは見つからず、

自分を客観的に見つめようという努力もあまり効を奏さず、


そんな時ふと心に浮かんだのが「色即是空、空即是色…」


興味を持って覚えたのが二十歳ぐらいの時。

今では半分ぐらいしか思い出すことができない。


部分的ではあったけど唱えてるうちに不思議と心が安らいでくる。


この記事の終わりに般若心経本文(フリガナはありませんが。)と音声サイト及び解説サイトを紹介しているので、

興味のある方は是非本文を見ながら読経に耳を傾けてみて下さい。


さて、その前にちょっと紹介したいのは「雑阿含経 第十七」に含まれる「箭経」という短いお経です。


内容は次のとおり。

☆☆☆

比丘たちよ、まだわたしの教法を聞かないひとたちは、苦受にふれられると、憂え、疲れ、悲しみ、胸を搏って泣き、なすところを知らず。
彼らは二種の受を感ずる。見に属する受と、心に属する受である。比丘たちよ、たとえば、第一の矢をもって射られども、さらに第二の矢をもって射られるがごとし。
それとおなじく、比丘たちよ、すでにわたしの教法を聞いた弟子たちは、苦受にふれられるども、憂えす、疲れず、悲しまず、胸を搏ちて泣かず、なすところを知らざるに至らず。

☆☆☆


分かりづらいかもしれませんが、要するに「第一の矢」は受けても「第二の矢」は受けないようにせよ、ということです。

この世に生きていく限り「生老病死」を始めとする種々の苦しみから免れることはできない。まずこのことを深く見定めて受け入れる、つまりある意味で「諦める」ということがまず第一歩なのだと思う。

「諦める」というと何か否定的な響きがありますが、難しく言えば「諦観する」ということであって、「真理を見極める」「この世の実相を悟る」という意味にとって欲しく思います。

そしてその第一歩が同時に最後の一歩でもあるのだと思う。

色相是空、すなわち、存在する全てのものの実体は空なるものであると諦観できた者には、もはや第二の矢が刺さることもない。


どんなに絶望的な状況に陥っていても、本当に絶望する必要は全然ないということではないでしょうか?

私たちが「私」と思っているものはいずれ滅び行く。

でもその滅び行く「私」を認識している一つの「目」があるような気がする。

その「目」は、存在でも非存在でもない何かベクトル(方向+量)のようなものかもしれない。

あるいは何か「一なるもの」であるかもしれない。


それが何であるか、今の人生で答えが出るんだろうか…?




<音声サイト>

写経のススメ!「般若心経音声」

曹洞宗・常明寺「法要と声の映像」
 "お経と映像集"⇒"第六話"の順にクリック


<解説サイト>

仏教悩み相談室「般若心経解説」

ウィキペディア(Wikipedia)「般若心経」


<本文>

「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」

観自在菩薩 
行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 

舎利子 
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 
受想行識亦復如是 

舎利子 
是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 
是故空中 
無色 無受想行識 
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 
無智亦無得 以無所得故 

菩提薩 依般若波羅蜜多故 
心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 

三世諸仏 
依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 

故知般若波羅蜜多 
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 
能除一切苦 真実不虚 

故説般若波羅蜜多呪 
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 
菩提薩婆訶 般若心経 



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たかが貧乏、されど貧乏… 

貧乏はつらい…。

いまはとっても貧乏。

いつかもう少しましな状態になったとしても、



この気持ちは持ち続けていこう。


貧乏にあえぐ人が一人もいなくなるその日まで。


阿弥陀仏のように。



なぜ阿弥陀仏?


阿弥陀仏の四十八誓願(又は四十八願)というのがあります。

もっと正確に言えば、阿弥陀仏が、阿弥陀仏となる前の法蔵菩薩であった時に立てた誓願です。
大無量寿経というお経に延々と記されています。


その四十八誓願になぞらえたわけです。


 …

ちょっと恐れ多くなってきました…。


阿弥陀仏様、すみません。



私は別に浄土真宗の信徒とかではありませんが、

話のついでに、もう少し説明を加えたいと思います。



さて、

法蔵菩薩はその四十八個の誓願をすべて成就され、そして阿弥陀仏となりました。

とてつもない長い時間(五劫と表現されます。)を要したとのことです。


知らない方も多いと思うので、
阿弥陀仏の四十八誓願をいくつか紹介したいと思います。


☆☆☆

第1願

私が仏になるとき、私の国に地獄、餓鬼、畜生のものがいるようなら、私はさとりを開きません。

第18願

私が仏になるとき、あらゆる人たちが、私の至心をよりどころに、往生まちがいないという思いから、ただ念仏を申す身となるように育てます。それでも私の国に生まれることが出来ないようなら、私はさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の正しいみ教えを謗ったりする人だけは除きます。
(この誓願は、法然が重視して浄土宗の根幹に据えたものであって、「王本願」と呼ばれています。)

第25願

私が仏になるとき、国中の菩薩が、あらゆる智慧をもって思いのままにに説法することが出来ないようなら、私はさとりを開きません。

第34願

私が仏になるとき、十方世界のあらゆる衆生が、我が名を聞いて、涅槃を得るに間違いのない身となり、もろもろの深い智慧をえることができないならば、私はさとりを開きません。

第39願

私が仏になるとき、国中の人々や天人が受ける楽しみが、煩悩の全くなくなった聖者のようにならなければ、私はさとりを開きません。


☆☆☆



昔、新聞配達をしていたころ、
お昼ごろ、公園で見知らぬおじさんにこの四十八誓願の話をしたことがあります。そして、そのおじさんが何故だか涙を流したのを覚えています。

今思うと、なんであのシチュエーションであんな話をしたのか不思議だけれど、

なんとなく話したかったんだと思います。


身なりはあまりきちんとした感じではなく、どちらかといえばみすぼらしい格好でした。


あらためて思い起こすと、

そんな話をするほうもするほうだけれど、

それを聞いて泣くほうも泣くほうですね。

ちょっと話しただけだったんですけど。


四十八誓願のうち何をどのように話したのかは、それこそ全く覚えていません。

おそらくは、「すべての衆生が悟りを得るまでは、私は決して涅槃に入らない。」という誓願について話したのだとは思いますが。


しかし、疑問に思う人もいるかもしれません。



法蔵菩薩が四十八願のすべて成就され、阿弥陀如来となったというのであれば、われわれはすでに救われているということになりはしないか?

しかし、現実は違うではないか?


でも法蔵菩薩は確かに阿弥陀如来となったのです。


この一種のパラドックスのような構造については、とても2行や3行で語れるものではなく、またの機会に考えたいと思います。


この点を真剣に取り上げる人はほとんどいないと思いますが、

中にはまじめに研究する方もいるようです。



えーと、またずるずると長くなってしまったので、

ここいらで筆を擱きたいと思います。


いや、待てよ、キーボードだから…、

んー、んー、 なんと言えばよいのか…。


思いつかない…。


まあ、いいか…。


なにはともあれ、

ここまでお付き合いくださいまして、
まことにありがとうございました。




あの「黄金律」の重大な誤訳について 

黄金律が本当に誤訳だとすると、
世界がひっくり返るとまではいきませんが、
相当に重大です。
これ以上影響の大きい誤訳もまずないのではないでしょうか。

黄金律というのは、

「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。(ルカの福音書 6章31節)」

という、
おそらく最も有名なキリストの教えのことです。
ご存知の方も多いでしょう。

ちなみにこの少し前の部分には、これまた有名な「敵を愛し、憎む者に親切にせよ」とか「あなたの頬を打つ者には他の頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。」などの言葉があります。

なぜ誤訳と思うのかといいますと、

ある牧師さんがその運営されている「バイブルネット」というウェブサイトにおいて、「ギリシャ語原文を無視した重大な誤訳である」と主張されているのをある程度信用したからです。

その牧師さんによれば、正当な翻訳は、

「あなた方はこう願い続けなさい。人びとがあなたに行なおうとしている事を、そのままあなたが彼らに行えるように。」

ということになります。

つまり、
善いことをすればそれが自分に同じように返ってくるし、悪いことをすればやはり自分に同じように返ってくるという神の摂理(この世を支配する大原則とでもいいましょうか。)どおり行なえるように願いなさい、といった意味になります。

行ないなさいではなくて、願いなさい、です。
人間は、自分が受けた通りにその人にお返しをするということが完全にできるわけではないので神に願いなさい、ということです。

最初に掲げた「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」という言葉は、一つの行動規範としてはそれなりの価値があるでしょうが、これでは意味が全く異なってしまいます。

誤訳と指摘された方は、あるべき愛の姿を示すものです。
正しい翻訳として(牧師さんが)指摘された方は、神の摂理あるいは神の義(英語ではrighteousness、つまり正しさといった意味です。)を示すものです。

キリスト教といえば神の愛(アガペーなどとも言われます。)が特に強調されますが、この部分についてはむしろ神の義が説かれているというわけです。

他にも数多く誤訳があると言うその牧師さんの主張を全面的に受け入れるとすれば、キリスト教というのは一般に思われているよりも因果応報の原理が強調されていることになります。

旧約聖書に限って言えば、もともと「行いに対してはその行いに応じた報いがある。」という感じの言葉が多く、神の厳しさや正しさがどちらかといえば強調されていますので(ただし、旧約聖書を何度も読んだというわけではないので、あくまで私の受けた印象です。)、黄金律などが誤訳であるとすれば、旧約・新約を通じての整合性はより高まると言えるのかもしれません。

私が素直に思ったのは、
人はその行いに応じた報いを受けるという原理あるいは法則というのは、

やっぱり本当なのかな、

ということです。


ただし、よくなされる議論ですが、
今幸福な人は過去の行いが善かったとか、今不幸な人は過去の行いが悪かったとか、そういう風に単純に捉えるのは浅はかだと思います。

そもそも本当の幸福が何なのかなんておよそ誰も分かってない。

私が思うには、
本当の幸福と言えるものは永遠に続くものだけです。そうなると一般に世の中で幸せと言われているものは全て対象外になってしまいますが、やはり私はそう思います。

大きな苦しみを背負った人に対して「あいつはよっぽど業が深いんだな」とか簡単に考える人については、心から悲しく思います。またその浅はかさを怒りも感じます。


今の状況を見て過去の行いがどうだとか判断することは意味がありません。大事なのは、未来に向かってどう行動するかです。

黄金律が誤訳であるかどうか、はっきりいって私には分かりませんが、牧師さんが修正された翻訳の方が人間にとって救いになるような気がします。


長くなりましたので、これにて。




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