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 2010年03月 

チュートリアル福田への応援メッセージ。 

日テレの「しゃべくり007」といえば、ネプチューンの名倉潤、原田泰造、堀内健、くりぃむしちゅーの上田晋也、有田哲平、(以上、アラフォー5人)、そして、チュートリアルの徳井義実、福田充徳、(二人とも34歳)の7人がまさにしゃべくる番組だ。

この番組を見ていると、20年ほど前に人気を博したアイドルグループ、CHA-CHA(チャチャ)を思い出す。
チャチャには、今も活躍している勝俣州和や、松原桃太郎、堀部圭亮、そして、元アイドルの西村知美と結婚して引退後にレストラン経営などしていた西尾拓美がいた。

何故、思い出すかというと、しゃべくりの福田とチャチャの西尾拓美が重なるからだ。もっと言うなら、スマップの稲垣吾郎とも重なる。

共通点は、100%のアドリブは苦手で向いてないが、非アドリブ的な(台本に沿った)流れの中でその独特の個性がキラリと光るという点だ。

はっきりいって、福田はしゃべくりで浮いている。
これは福田が悪いのではなく、福田を生かしきれていない周りが悪い。

チャチャと欽ちゃんの番組での西尾もそうだったのだが、アドリブが得意でない人は、こういう番組に出演することはまさに針のむしろである。

当時、あまりにも西尾を見ていられなくて、私は番組及び欽ちゃん宛てに手紙を書いた。
あまり覚えていないが、アドリブ至上主義みたいなやり方を変えて西尾をもっと生かせ、などと書いたと思う。

その後、すぐではなかったが、番組の内容がアドリブ偏重ではなくなり、やや台本的な構成に変わっていった。
西尾は元々才能があったのであろう。台本的な流れの中で生き生きとその個性を輝かせ、番組は一層面白いものとなった。(と、私は感じた。)

欽ちゃんが私の手紙を読んでくれたかどうかは分かりませんが、少なくとも番組関係者の誰かしらが同じ思いを共有してくれていたのでしょう。こんな大それたことをしたのはこれが初めてであったが、西尾の苦悩がいくらかでも軽減されたと思い、私としてはホッとしたものである。

で、話は福田に戻りますが、
彼の素晴らしさは、あのアドリブ偏重の流れの中では全く生かされない。
漫才のような台本的な作品の中でこそ彼は輝くはずだ。

ロンドンブーツ1号2号の田村亮も、その才能を殺されているように感じるが、彼もかなりきついはず。
田村亮の生かし方を周りは全く理解できていない。

まあ、今はとりあえず、福田に焦点を絞ろう。
番組制作者は、福田を見殺しにしているのであり、大して面白くもない名倉と堀健の絡みや徳井のアドリブに頼りすぎなのだ。番組制作者も見る目無しだが、司会者の上田晋也もボンクラである。上田が福田を殺しているといっても過言ではないくらいだ。

徳井との漫才での福田のあの表情は、かつて誰もなしえなかったほどの最高のものだ。
有田や名倉や堀健などその足元にも及ばない。

もう、手紙を出すようなパワーは私にはない。
が、番組関係者の皆さん。
もし、このブログ記事を目にすることがあったら、番組制作者や上田に伝えて欲しい。
こんな意見があった、とね。

SMAPの稲垣も一時期は苦しんでいたようですが、
幸いにも自分の立ち位置を見つけて、上手くやってるようです。
よかったです…。



ちなみに、
スマップの草剛は、チャチャの元メンバーだったそうです。
デビュー直前に欽ちゃんから脱退を勧められたらしいです。

キムタクこと木村拓哉もチャチャのメンバーだったとか。
自分から辞めたそうですが。


福田、頑張れ。
俺は応援しているぞ。
お前は面白い!

他の6人のアドリブなんてさっぱり面白くないわ。
一回も腹の底から笑ったことないわ。

お前が面白くしてくれ。
福田。

お前が一番面白い。
自信を持て、福田。
俺が保証してやる。

くじけるな。
お前しさを貫き通せ!

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「習慣」に関する名言 

振り返れば、良い習慣なんて何も思い浮かばない。
何があるだろう?

性格上、気質上、やむにやまれず常日頃行っている行動というのは確かにある。
でもそれは、「良い習慣」というのとは似て非なるものだ。

良い習慣というのは、自然に得られる場合もあるであろうが、
人間は往々にして、愚かで自堕落で自制心が弱いので、
自然に身に付くことはまれであると思う。

一般的には「 良い習慣=苦労して努力して身に付けるもの 」
というイメージのはず。

そして生半可な努力では身に付かないことも、
多くの人が理解しているところ。

そもそも、
自分にとって何が良い習慣なのかは、
自分にしか分からない。

良い習慣の帰結としての成功談は
いやというほどテレビや本で紹介されますが、
あんまり鵜呑みにすべきではない。

個人差を没却した汎用的な良習慣など、
そこらの道の側溝に捨ててしまえばいい。

あらん限りの勇猛心を持って自らの内心を探り尋ねても、
それでも容易に見つからないのが、自分にとっての良習慣だ。

私も、日々試行錯誤していますが、
何が私にとっての良習慣なのかいまだに分からない。

まあ、
とりあえず、
先人たちの言葉をひも解いてみましょう。
なにかヒントを得られればよいのですが、
あまり期待すべきではありません。

それほどに習慣は変えがたい…。




★★★


優れた道徳心は習慣からしか生まれない。
私たちは、自分でつくった習慣のようにしかならないのだ。
節制している人は節度ある人となり、勇気ある行動を続けている人は勇敢な人となる。

   アリストテレス



猫は美しい王女になっても鼠を捕ることをやめない。

   ベルネ 出典:「断片と警句」



習慣は、浅はかな人々を支配する。

   ウィリアム・ワーズワース



他人と比較してものを考える習慣は、致命的な習慣である。

   バートランド・ラッセル 出典:「幸福論」



習慣は第二の自然である。第一の自然に比べて弱いものではけっしてない。

   モンテーニュ 出典:「随想録」



何もしないでいるということは、自信を失っていくだけである。

   加藤諦三 出典:「自分だけにしかできない生き方」



悪徳は、習慣が始まるところに始まる。
習慣はサビである。それは魂の鋼鉄を蝕む。

   ロマン・ロラン  出典:「回想録」



四十歳を過ぎると自分の習慣と結婚してしまうのだ。

   ジョージ・メレディス(19世紀英国の小説家) 出典:「リチャード・フェヴレルの試練」



習慣を自由なしに得るものは人生において多くのことをなしえる。
習慣は技術的なものであるゆえに自由にすることが出来る。

   三木清 出典:「人生論ノート」



はじめは人が習慣を作り、それから習慣が人を作る。

   ドライデン(詩人)



われわれは消極的に悪い習慣を捨てようと努力するよりも、
むしろ常に良い習慣を養うように心掛けねばならぬ。

   ヒルティ



習慣は人間生活の最大の道案内である。

   デイヴィッド・ヒューム(哲学者) 出典:「人間悟性論」



結婚は一切のものを呑み込む魔物といつも闘わなければならない。その魔物とは、つまり習慣のことだ

   オノレ・ド・バルザック(小説家) 出典:「結婚の生理学」



まったく相反する二つのこと
習慣と新奇が等しくわれわれの心をとらえる。

   ラ・ブリュイエール  出典:「人さまざま」



一家は習慣の学校なり。
父母は習慣の教師なり。
而してこの習慣の学校は教育の学校よりも有効にして、実効を奏する

   福沢諭吉



悪いことの習慣を多く持つものは悪人となり、
良いことの習慣を多くつけている人は善人となる。

   渋沢栄一



われわれにとって怠惰ほど有害で致命的な習慣はない。
にもかかわらず、これほど身につきやすく、断ちがたい習慣もない』

   ジョン・トッド 出典:「自分を鍛える」



人間は理性の生き物でもなければ、本能の生き物でもない。
人間は習慣の生き物である。

   ジョン・デューイ



決心によって正しくあるのではなく、習慣によって正しくなり、
単に正しいことが出来るのみではなく、正しいことでなくてはやれないようにならねばならない

   ワーズワース 出典:「義理に与える頌」



人生の後半は、
人生の前半に培われた習慣によって成り立っているにすぎない。

   ドストエフスキー



習慣は偽りの友を作る。
あたかも機会が偽りの恋人を作るように。

   ボナール



よい習慣から抜け出すことが、悪い習慣から抜け出すことよりもやさしいのは困ったことだ。

   サマセット・モーム 出典:「断片」



良心の掟は自然から導き出されるというが、それは習慣から生まれる。

   モンテーニュ 出典:「随想録」



この世に、粘り強さに勝るものはない。
才能?才能があっても成功できなかった例は枚挙に暇がない。
天才? 報われない天才という言葉は、すでに決まり文句になっている。
教養? 世の中は教養ある浮浪者であふれている。
粘り強さと断固たる信念だけが、無限の力を持つ。

   カルヴィン・クーリッジ(アメリカ合衆国 第30代大統領。)



人間の強い習慣、嗜好を変えるのは、さらに強い欲望だけである。

   ジョン・マンデヴィル(「東方旅行記」作者)



人間は習わし次第のものだ!

   シェークスピア 出典:「ヴェローナの二紳士」



生活とは、つまり習慣の織物である。

   アンリ・フレデリック・アミエル 出典:「アミエルの日記」



良い習慣は悪い習慣によってキャンセルされる。

   ジョセフ・マーフィー



習慣は条件づけです。
あなたが悪い習慣に条件づけられたなら、
あなたはよい習慣にも条件づけられます。

   ジョセフ・マーフィー



四十歳を過ぎると自分の習慣と結婚してしまうのだ

   メレディス 出典:「リチャード・フェヴレルの試練」



諦めるな。一度諦めたらそれが習慣となる。

   出典: がんばれ!ベアーズ



習慣はわれわれの偶像であり、われわれが服従するから強いのである。

   アラン 出典:「幸福語録」



心が変われば、態度が変わる。態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。運命が変われば、人生が変わる。

   ヒンズー(ヒンドゥー)教の一節



人間が変わる方法は3つしかない。
1つは時間配分を変える。2番目は住む場所を変える。
3番目は付き合う人を変える。
最も無意味なことは「決意を新たにする」ことだ。

   大前研一


★★★


関連記事

「誘発」に関する考察 (児童ポルノ規制に関して) 

児童ポルノ規制に関する弊ブログのhttp://orangekick.blog19.fc2.com/blog-entry-1003.htmlの記事に対し、次のようなコメントをいただきましたので、それに答えつつ、あらためて私見を述べてみたい。

そのコメントは次のようなもの。


★★★

心理学的側面からのアプローチがデータ提示よりも有意義とhttp://orangekick.blog19.fc2.com/blog-entry-983.html
で述べていらっしゃいますが、
>さて、およそ20年以上前の時代と今の時代を比べて、性犯罪は減ったのでしょうか??
と書いてデータに論拠を求めつつ、しかも肝心の数字を出さないのでは、心理学的・データ的のどちらのアプローチとしても中途半端ではないでしょうか。

★★★


さて、やや中途半端だったかもしれません…。

ただ、「肝心の数字」を出さなかったのは、データに論拠を求めていないからであり、また、単に性犯罪の数が減ればいいとは考えていないからです。

特に少年少女への性犯罪に関しては、いくら無理だと言われようと、性犯罪被害の減少ではなく、あくまで根絶を目指すべきです。

http://orangekick.blog19.fc2.com/blog-entry-1003.htmlでも少し触れましたが、「単純所持規制やバーチャル規制などをしないことが、児童への性犯罪の抑止につながる」という考え方は、非常に後ろ向きであり、人間の可能性への過小評価といわざるを得ない。

おそらく大多数の方は、核の完全廃絶と同じくらい、児童性犯罪の根絶をあきらめているのかもしれない。

しかし、人間はまだ人間のことをさほど分かっているわけでもない。
色々な側面から性犯罪阻止の方法を検討することで、もっと前向きで効果的な抑止策を実現できると私は思うのです。その一つが心理学的側面からのアプローチです。

確かに、単純所持規制などの法規制と児童性犯罪増加との因果関係は0とは言えません。単に被害の数を減らすという目的に絞れば、あえて規制しないという考えも間違いではない。

でも、その発想は、いわば「諦め」に基づくものであり、最後の最後にやむを得ずとる手段に過ぎないと思う。それをさも最も有効な抑止策のように主張する態度は、おそらく正しくはない。


さて、どこまでいっても私は規制賛成派なのですが、その論拠を示す前にまず、漫画、アニメ等のバーチャル表現による児童ポルノについての規制反対派・規制慎重派の意見を整理したい。

(ちなみに、何歳未満を児童とすべきかという年齢の線引きの問題は、ここでは論じない。以下、「児童」という場合は小学生以下の年齢をイメージしていただきたい。)


規制反対派・規制慎重派の意見は、2002年の米国連邦最高裁による、いわゆるアシュクロフト判決におよそ集約されており、まずはその判決について紹介したい。その内容は以下のとおりである。(原告は「表現の自由連盟(業界団体)」。被告は「政府(アシュクロフト司法長官)」。なお、原告勝訴。)

★★★

◆政府は、CPPAは実際に児童を使った児童ポルノと区別がつかない作品を禁止しているのだ、と主張する。しかし、ファーバー判決で禁止された作品は、それ自体が児童に対する性的搾取(sexual abuse)の記録であるのに対して、CPPAが禁止している作品は、犯罪の記録でもなければ、それによって犠牲者を作り出しているわけでもない。
◆政府は、ヴァーチャルな作品が児童に対する性的搾取につながる、と主張するが、その因果関係は明白ではない。
◆政府は、児童ポルノが価値ある表現であることはまれなので、因果関係は間接的でもよい、と主張する。しかし、ファーバー判決は、児童ポルノの内容を問題にしているのではなく、その制作方法自体を問題にしているのであり、また、児童ポルノそのものには価値がない、としているわけでもない。
◆政府は、小児性愛者がヴァーチャルな児童ポルノを児童を誘うのに利用するかもしれない、と主する。しかし、それ自体が合法的な存在でありながら違法なことに利用されるものは無数にある。
◆児童を保護するために「成人の権利の内にある表現(speech within the rights of adults to hear)」すべてを完全に禁止することはできない。
◆政府は、ヴァーチャルな児童ポルノは小児性愛者を刺激し違法な行為に走らせる、と主張する。しかし、表現を、それが持つ単なる傾向だけで禁止することは出来ないし、それによっていつか違法行為が行われるであろう可能性が高まる、というだけで禁止することもできない。
◆政府は、ヴァーチャルな児童ポルノの禁止は児童ポルノ市場をなくすためにも必要だ、と主張する。しかし、ヴァーチャルな児童ポルノが流通すれば、却って違法な児童ポルノは姿を消すのではないか。
◆政府は、ヴァーチャルな児童ポルノが流通すれば、実際の児童ポルノの制作者を訴追することが困難になる、と
主張する。この主張に従えば、結局「憲法によって保護されない表現を禁止するために、憲法に保護される表現を禁止する」ということになるが、そのようなばかげたことはない。

(以上、「CS成倫勉強会講義録(要旨)」を掲げたサイトhttp://www.seirin.org/rep141018.htmlから引用)

★★★


上記の中で特に「政府は、ヴァーチャルな児童ポルノは小児性愛者を刺激し違法な行為に走らせる、と主張する。しかし、表現を、それが持つ単なる傾向だけで禁止することは出来ないし、それによっていつか違法行為が行われるであろう可能性が高まる、というだけで禁止することもできない。」の部分が一番のポイントでしょう。

「それによっていつか違法行為が行われるであろう可能性が高まる、というだけで禁止することもできない。」の部分は必ずしも「可能性が高まるとはいえ、それだけで…」という意味ではなく、「可能性が高まると仮定しても、それだけで…」という意味であり、必ずしも「高まる」と断定したわけではない。

可能性が高まることが将来的に証明されても禁止はできないというわけだが、法律というものは得てしてそういうものである。単に誘発するというだけでは規制できない。この事情は日本でも変わりはしない。

規制反対派・慎重派による主張の眼目の一つはそこにあるのであり、彼らにとっては、「そもそも誘発しない」という主張以上に強力な論拠となりましょう。

簡単に整理すれば、規制反対派・慎重派の主張は、
① 単純所持規制やバーチャル児童ポルノ作品規制は、児童への性犯罪を誘発しない。
② 仮に誘発するとしても、誘発するというだけで法規制をすることは妥当性を著しく欠く。
ということになるかと思います。


で、私の意見ですが、
まず①について。

「誘発する」かどうかを検証するには、実験をすればいいのでありますが、たとえば、同程度の幼児性愛嗜好を持つ者を二つの集団に分け、一方のグループには児童ポルノ作品(又はバーチャル児童ポルノ作品)を所持・鑑賞させ、もう一方のグループには、一切所持・鑑賞させずにおき、彼らが児童性犯罪を侵すかどうかを5年程度監視すればいい。

しかし、こんな実験は当然不可能です。
いろんな意味で無理がありますよね。

上記の実験は極端であるにしても、ヴァーチャルな児童ポルノが小児性愛者を刺激し違法な行為に走らせるか否かについて検証することは容易ではなく、事実上不可能と言っていい。もし検証する方法があるとするなら、違法行為に走った者が日頃ヴァーチャルな児童ポルノ作品を所持・鑑賞していたか否かの調査ということになりましょうが、この方法にしたって、違法行為に走った原因が犯罪者の生来の偏った嗜好性によるのか、当該のバーチャル作品によるのかはおよそ判然としない。

誘発するかどうかの厳密な立証など所詮無理であり、これは犯罪心理学的な見地から推定するのが精一杯といったところ。

そういう意味では、ネット上で見かける「性犯罪発生率の推移と法規制の時期との関係を示すデータ」は、そんなに有力な根拠とはならないはず。大いに参考にはなりますけど。

そもそも、人種も環境も歴史も法律も生活習慣も何もかも違うというのに、どうして単純に比較できるのか?

私は、いわゆる「立証」はほぼ不可能だと考えます。
もし将来、人の心の動きに関する、物理法則然とした検証可能な厳密な機制が発見されれば別ですが。

実験データ等を用いて立証できない以上は、それ以外の見地から最大限の推定を働かせる他はない。「それ以外の見地」には、心理学的、精神医学的、経験則的、哲学的な見地に加え、神学的見地までもが含まれるべきでしょう。


そういうわけで、科学的な根拠に基づいてというわけではありませんが、
私は「誘発する」と考えます。

その論拠は次のとおり。
(ここでは、あえて単純所持規制、バーチャル作品規制を統一的に「単純所持規制等」とします。両者に通底する部分を問題にしているからです。)

1. 児童ポルノ作品(リアルかバーチャルかを問わない)を鑑賞する行為を繰り返していると、現実の児童を目にした時に自動反応的に裸体を連想することが通常の人より格段に多くなり(というか、普通の人は裸体などいちいち連想しない。)、その連想(無意識的な場合もある)が人によっては犯罪行為への衝動に転化する。衝動の前には必ず意識的又は無意識的な連想があるのであり、連想することがなければ衝動は生じない。よって連想の機会を激減させる事が犯罪行為の抑止には有効である。

2. 何事であっても日常的に身近に存在すると、いわば「慣れ」が生じてくる。たとえそれがどんなに異常なことであっても、心の平常・均衡を保つべく、なんらかの心理的防衛機制が働いて半ば無意識的に順応しようとする。児童ポルノ(幼児性愛)の場合、一般的には「異常」とされており、異常ではないと言い張る人でも内心は「異常」という自覚はあるのであって、だからゆえに、心のバランスを保つために、無意識下に「異常ではない」ことの理屈付けをしようとする。バーチャル児童ポルノ作品が氾濫することや、児童ポルノ作品の単純所持が法的に許されていることは、この理屈付けの一部となって、幼児性愛者の心の均衡に寄与することとなる。幼児性愛者だからといって必ずしも児童性犯罪を犯すわけではないが、児童性犯罪を犯す者は総じて幼児性愛者であるのであるから、幼児性愛者の心の均衡に寄与するということは、潜在的な児童性犯罪者の心の均衡に寄与することとなる。思うに、児童性犯罪を犯す者は往々にしてこの「心の均衡」が出来上がってしまっているのであり、この「心の均衡」を崩すことが児童性犯罪の抑止には効果的である。単純所持規制等を実行しないことは「心の均衡」をいわば助長しているのであり、結果的に性犯罪を誘発していることになる。誘発しないためには、上記の「理屈付け」を強化するような現状を変え、幼児性愛者が自らを「異常」であるとしっかりと自覚できるような状況に持っていくべきである。自覚が薄弱であれば、更正への道を模索しようともしないであろう。
もっとも、幼児性愛者だからといって必ずしも児童性犯罪を犯すわけではないので、やや乱暴で粗雑な議論に見えることは承知していますが、あくまで「誘発するか否か」に絞った議論ですので、厳密に言えば粗雑ではないと考えます。

<上記の補足> 扇情的な作品に限りますが、もし仮に自分に幼い娘がいたとして、隣の家に(バーチャル)児童ポルノ作品を所持して日夜鑑賞している男が住んでいるとしたら、規制反対派・慎重派の皆さん、それでも「実際に犯行に及ぶかは全くの別問題であり、表現の自由は守られねばならない。」などと平然と言えるのですか?
その理性をよっぽど信用できる場合は別ですが、そうでない限りは、私だったら引っ越しを考えます。反対派の皆さんも引っ越す方向で考えるのではないでしょうか?
理屈と実際は違うと思います。通常の嗜好の人よりは児童性犯罪を犯す確率が高いのです。何故なら、少なくとも彼らは幼児性愛者だからです。



次に②の「仮に誘発するとしても、誘発するというだけで法規制をすることは妥当性を著しく欠く。」について。

これに対して反論するのはなかなか難しいですが反論します。

②は、場合によりけりだと思うのです。
分かりやすく「包丁」と「酒」に分けて考えてみますが、

包丁については、それが誰かを誘発して殺傷に使われたとしても、包丁の使用を禁止せよという流れにはなりません。
そうした誘発がほんの一部の人にしか発生しないことに加え、仮に誰かを誘発したとしても、本来の目的から大きく外れているからです。この場合は禁止はあり得ないし議論する必要もない。どんな物でも凶器になるといえばなりますからね。

一方、酒については、飲酒運転による悲惨な事故、一気飲みによる急性アルコール中毒死、飲酒によるDVや虐待、泥酔しての暴力事件やプラットホームからの落下、などが起きているからといって、包丁の場合と同様、飲酒を禁止せよという議論は全く起きませんが、包丁と違うのは、本来の用途とは違う使い方をしたわけではないということです。酒の場合は「量」の問題です。この場合、は包丁の場合ほどの飛躍はない。酒の水槽に沈めたとか強い酒に引火させて放火したとかならともかく、酒本来の目的・用途は飲むことです。飲酒運転や泥酔してのDVなどは、本来の用途である飲む行為によって(間接的にであれ)引き起こされています。

酒を飲めば酔うのは当たり前であり、飲むべきでない時に飲んだり、過度に飲んだりすることで、種々の問題が生じます。

では、児童ポルノ作品の場合はどうか?
私は包丁的でもあり酒的でもあると思います。

こうした作品の鑑賞と児童への性犯罪とは、「性的欲求の充足」という共通項がありますが、鑑賞に留まるか、性的刺激を行動に移し犯行に至るかには、質的(包丁的)に極めて大きな開きがあります。刺激が衝動へと変換されて犯行に至ったといえる場合は質的な問題でしょう。
また、量的な観点からは、同じ鑑賞でも、「好奇心に駆られて少しだけ鑑賞するという場合」と「どっぷり浸ってマニア的に収集して鑑賞する場合」とでは大きな違いがあります。程度を考えずに鑑賞に浸りすぎて結果的に事件を起こしたといえるのであれば量的な問題となります。

言いたいのは、
前者の質的飛躍による誘発の場合は規制はあり得ないが、量的な問題による誘発の場合は規制は「あり」だということです。いってみれば、飲酒が禁止されたって、包丁ほどには反対しないということです。

包丁を禁止するのは無茶苦茶ですが、酒を禁止するのは無茶苦茶とまでは言えない。
児童ポルノ作品の場合も、過度の耽溺が原因となり得る限りは、禁止されても決して「著しく妥当性を欠く」とは言えないと思う。

②の「仮に誘発するとしても、誘発するというだけで法規制をすることは妥当性を著しく欠く。」は量と質の問題を
ごっちゃにした結論であり、あくまで法規制のあり方という見地からは、反論せざるを得ない。



長くなってしまいましたが、とりあえず終わりです。
ここまで読んでくださった方、誠に有難うございました。
大して推敲もせずに書いたので、議論が混乱している部分があるかもしれませんが、その辺は目をつぶって下さい。

要は、制作者側も鑑賞者側も少しは自重しろ、ってことです。
児童がいかに弱い存在であるか、知力・体力ともにいかに無防備な存在であるかを考えて欲しいわけです。

では。



<追記>
①と②はしっかりと切り離して読んでいただきたく思います。

関連記事

韓国のサイバー攻撃を笑う日本人ネットユーザーについて。 

一部の韓国人による2ちゃんねるへのサイバー攻撃がニュースになっておりますね。
まあ、アメリカにサーバーがあることを知らないでやった人がほとんどだろうから、故意というよりは過失でしょうね。
罰すべきなのは、「http://coreafighter.iza.ne.jp/blog/」のブログ主のような安易な扇動者。
一体、何しに日本に来ているのやら。

事件の概要は以下のとおり。


★★★

キム・ヨナ批判が発端の「日韓サイバー戦争」、中国でも大きく報道
(記事: Searchina サーチナ  2010/03/02(火) 22:18 )

  1日、日本の巨大掲示板「2ちゃんねる」のサーバが韓国からのサイバー攻撃を受け、サーバダウンした。一方、日本からは韓国大統領府のウェブサイトなどにサイバー攻撃があるなど、日韓ネットユーザーによる「サイバー戦争」は中国でも大きく取り上げられ、報じられた。

  サイバー戦争の発端についてだが、韓国では「日本ネットユーザーが招いた事態である」と主張。先日、ロシアで韓国人留学生が集団で暴行され、死亡する事件が発生したが、これについて日本のネット上に書き込まれた「ロシア万歳(ばんざい)」というコメントや、冬季五輪フィギュアスケート金メダリストである金妍兒(キム・ヨナ)選手に対して「審判を買収した」と誹謗・中傷のコメントが引き金になったとの主張だ。

  日本のネット上に寄せられたコメントに怒った韓国ネットユーザーが、韓国の大手ポータルサイト上で「復讐」を呼びかけると3日ほどで8000人以上が集まった。続けて、1日13時午後1時ころから『2ちゃんねる』に対して「F5リロード(F5キーを連続的に押す方法)」攻撃で同サイトのサーバをダウンさせたが、これには約5万人もの韓国ネットユーザーが参加したとされる。

  「2ちゃんねる」は3月2日夜もアクセスしづらい状況が続いている。今回の韓国からの大規模なサイバー攻撃に対し、サーバが置かれている米国のデータセンターは米連邦捜査局(FBI)などの公的機関に対して「サイバーテロ」として調査を依頼するとした。(編集担当:畠山栄)

★★★


反韓思想に洗脳されてしまった若き2ちゃんねるユーザーは固より、常識的な普通の2ちゃんねるユーザーもこの件に関しては、加担した一部韓国人を叩きまくっている様相。

でも、こんな時こそ、冷静に事態を見つめるべきでしょう。
韓国の人口は現在およそ五千万人ですから、5万あるいは10万ともいわれる2ch攻撃の韓国コミュニティー参加者は、10万人としてもたかだか全人口の0.002%である。ほんの一部の韓国人の行動をもって全韓国人の心性を判断することは軽佻浮薄の極みであります。おそらく大多数の韓国人は2ちゃんねるのようなガス抜きサイトの書き込みをさらっと流しているはずです。

それを少しも理解せずに、3回転ルッツと3回転アクセルの違いさえ分からないでフィギュア採点を不正だと騒ぎ立て、今回のサイバー攻撃をここぞとばかりに叩きまくる2ちゃんねらーは、まさに日本の恥。

根拠の希薄な感情的な中傷など相手にしないのが日本人であり、過剰に反応して小学生のように相手を叩く行為は、まるで日本人でないかのようである。

日本人としての誇りとは、いわれのない中傷を相手にしないところにあるはず。
まるで十字架に磔にされたキリストのようですが、まさにそのキリスト然とした精神が日本では美徳とされ続けてきた事実は否みようがない。

たとえ2ちゃんねるのような自由奔放な発言が許される空間であっても、日本人としての誇りを自覚するのであれば厳に口を慎むべきであります。


そもそも、原因の一つとなったキムヨナの金メダルについては、識者であればあるほど異論がない。
20年以上オリンピックフィギュアを見続けてきた私からしても、やはり金メダルはキムヨナで納得。
審査員による採点行為の不正を糾弾するのは、やや行き過ぎ。

おそらく悪いのは採点基準であって、採点行為そのものは許容範囲ですよ。
ねらー諸君はよくよく考え直して欲しい。

もしかすると韓国人審査員の不正採点があったかもしれないけど、それを許してるオリンピックの方がよっぽど責められるべきではないか?
演技点なんていう恣意的な採点基準があること事態が、私にとっては噴飯もの。
冬季オリンピックの他の競技は、コンマ何秒を競っているのに、フィギュアスケートだけはいまだに芸術的要素などが点数に反映されているのだ。このいびつさを指摘するマスコミは皆無であり嘆かわしい。

フィギュアの採点基準は今後変更されていくのであろうが、キムヨナのスピードと幅のある豪快な3回転ジャンプと、浅田真央の筋力使ったコマのような3回転ジャンプと、どちらを高評価すべきなのかは、まさに恣意的。
個人的には、キムヨナのようなスピードに乗ったジャンプを高評価したいけど、それが何故浅田真央的な筋力ジャンプを凌駕するのかという理由を明確には答えられない。

フィギュアスケートほど採点が難しい競技は他にないといっていいのだ。
こんな矛盾だらけのフィギュアスケートでキムヨナが異常に高得点だったからといって、即座にキムヨナ採点に不正があったと決めつけていいものか?

実際、キムヨナが金メダルを取ったことに対して異を唱える日本人は極めて少数派です。
点数はやや高すぎだったかもしれませんが、キムヨナの金メダル取得は私はもちろん、多くの日本人が納得しています。ヨナのパフォーマンスは、演技力・技術力・プログラム構成ともに浅田真央より上でしたよ。

浅田真央のトリプルアクセルは確かにもっと高評価されていいのかもしれませんが、もっと高評価されたとしても、それでもなお、今回はキムヨナの方が上だったでしょう。浅田真央の間違いは、「観客を魅せる」という視点の欠如でしょう。
選曲にしても化粧にしても、およそ真央ちゃんらしさを体現しているものではありませんでした。
男子フィギュア金メダリストのスコット・ハミルトンを知っている方なら同意していただけるのでは?

会場をとりこにしたスコット・ハミルトンのあの演技。
知ってる人ならば、これと浅田真央を比較しての私の言は納得いくものとなるでしょう。


フィギュアについてはもう述べませんが、とにかくマスコミやインターネットの情報には要注意ということです。
今回の一部韓国人によるサイバー攻撃は、心理学的に十分に理解可能な反応であり、日本のネットユーザーがいつその立場に立たされてもおかしくないような代物です。

ここで冷静沈着になれないのであれば、そのような「あなた」は、あなたがまさに批判し攻撃しているその対象(イメージ)と何も変わらないことになります。

韓国人も日本人も同じ人間です。
目くそ鼻くそみたいな罵り合いであることを自覚すべきでしょう。

今回の自爆的韓国人サイバー攻撃を高所から笑えるほど、あなたの行動は誇れるものですか?
死ぬほど厳密に精査したら、似たようなものじゃないですか?

愚かに映る他者を叩いて得た安っぽい満足感に浸るほどに日本人は劣化してしまったのか?
そうは思いたくない。

理不尽な要求をする隣国を思う存分叩きたいという欲求自体は異常とは思はないけど、日本人たらんとするのであれば、そうした欲求は、愚劣なものとして捨て去るべきである。

それができないのなら、日本人みたいな発言をするな。
それができない「あなた」はすでに日本人でも何でもない。



日本国と日本人をいたずらに美化したように聞こえたかもしれないが、私が思うに決して美化はしていない。
私がいう日本人的な部分は、大多数の日本人がその心底に保持しているものであります。

それを理解もせず保持もしない似非日本人が、今回の一部韓国人の愚行を蔑視していることに怒りを覚えたということです。

どの国でも過激な輩はいるものです。
わが国にもいるではないですか。
そんな当たり前の事実を異常視して攻撃するのは軽薄千万。


流されずに自らの頭で判断して欲しい。
他人の意見など糞食らえの精神で「自分」の思いを慎重に抽出して欲しい。


世に流れる多くの言説は往々にして間違っているのです。
安易に流されてはいけません。

あらゆるものを徹底的に疑い尽くして疑い尽くして最後の最後に残るものは、あらゆる仮面を脱ぎ去ったあげくにあなたの心内に断末魔のようにこだまする真摯なる一言。それは本当に信じていい。そこまでに偽りを剥ぎ取れるのであれば。

そこまで言えるほどに、真実は魂に近くある。
偏見を極限的に排する姿勢を貫き、自らの魂の深奥を誠実に見つめる勇気を持つならば、そこには確かに光り輝く真実が座しているはず。



何の因果か知らぬが韓国は日本の隣国です。

韓国がどんなに日本を嫌おうと、
仲良くなるよう日本は努めるべき。

誤解は必ずいつか解けます。
必ずいつか解けます。

誰をも叩かず愚直にひたすらに真実を淡々と述べればいいのです。
それが唯一の活路。

おやすみなさい…。



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