「御書」の言葉から
創価学会員以外の一般の人が読むことはあまりないと思いますが、「御書」と称される本があります。
学会員にとっては、クリスチャンにとってのバイブルに当たるものだと思います。
私自身は学会員でないどころか、むしろアンチ創価学会の人間ですが、日蓮という人間を誹謗中傷する気持ちはほとんどありません。また、法華経という仏陀最後の教説に対しては深い愛着を持っています。
日蓮上人の生き方や言葉は、時には激越なものとして目に映ることもありますが(見たわけではありませんが)、それが日蓮という方に対する評価に影響を及ぼすことは特にありません。どちらかといえば個性の問題だと思っています。
今日は友人の兄に当たる人の仕事場に用事があって寄ったのですが、そこに去年のカレンダーが掲げてあり、よく見ると「御書」から抜粋した日蓮上人の言葉が書いてありました。
その中で心に迫るよい言葉がありましたので、三つ紹介したいと思います。
☆☆☆
心の師とはなるとも
心を師とせざれ
兄弟抄(御書1088貢)
悪は多けれども一善にかつ事なし
異体同心事(御書463貢)
法自ら弘まらず
人法を弘むる故に
人法ともに尊し
百六箇抄(御書856貢)
☆☆☆
特に二番目の「悪は多けれども一善にかつ事なし」はなかなか力のある言葉だと思います。
意味としては、
世の中には様々な悪がはびこっているけれど、いくら悪がその勢力を結集しても、ほんの一片の「善」にすら及ばない、ということを言っているのだと思います。
要するに「正義は必ず勝つ」ということでしょうか。
悪者と戦っている人にとっては相当勇気づけられる言葉ではないかと思います。
最初の言葉に出てくる「心」は、おそらく移ろいやすく乱れやすい人間の感情を指しているものと思います。
心理学でいう超自我(スーパーエゴ)と対置されるところの「自我」の部分だと思います。
そんなものの要請に従って行動してはならぬ、ということでしょうか。
今日はその友人(学会員)の練習にも少し付き合いました。
どこかで「開目抄」(御書の一部)の講義をするということでした。
これは、佐渡への流罪となった日蓮が、動揺したり態度を翻したりする弟子たちに向けて書いたものです。
ある意味では、創価学会の「創価学会らしさ」を生み出す源泉ともいえる部分かと思います。
その「開目抄」の一番最後に当たる部分を、思い切って紹介したいと思います。
何度も言いますが私は創価学会が嫌いです。嫌いなところはたくさんありますが、なかでも学会員であることを隠す人が多いというところが嫌いです。
「命を懸けて信心する」などと言いながら、その信じているものを恥じて隠すなんて偽善もいいところです。
日蓮は、法華経を説くが故に受けるそしりは「恥ではない」とそれこそ何度も言っています。今紹介しようとしている「開目抄」の一番最後で訴えているのもそのことに他なりません。
「…… 皆法華経のゆへなればはじ(恥)ならず。愚人にほめ(讃)られたるは第一のはぢなり。」
と訴えています。
これは噂に過ぎませんが、SMAPは五人とも学会員だとか。
特に草薙さんはほぼ間違いないようです。
これだけ有名なのにどうして一般の人に伝わらないのでしょう。
特に隠そうとしない限りは、自然に伝わるはずではないでしょうか?
香取信吾さん以外の四人は在日朝鮮人だなんていう噂もありますが、それとこれとはちょっと次元が違います。
恥を受けようと、芸能界から追放されようと、尊敬する人は?と聞かれて「日蓮大聖人」とか「池田名誉会長」と答えるのが、
まさに日蓮の求める信徒の姿ではないでしょうか?
池田大作氏は、私ははっきり言って毛嫌いしていますし、その著書に対しても不誠実なものを感じます。
ただ、自分が創価学会員であることを隠そうとしていないという一点に限って言えば、大変立派です。
友達を失っても、仕事をクビになっても、自ら信ずるところのものを恥とせずに堂々と公言するというのが、
正しい宗教であることの一つの証であると思います。
聞かれてもいないのにペラペラ喋る必要はないのかもしれませんが、そうでない限りは、普通に公表するべきです。
自分への戒めとしても、ここで強く訴えたいと思います。
さて、最後にその「開目抄」の最後の部分を引用します。
難しい用語が多いですが、大体の雰囲気をつかめるかと思います。
要は、
法華経を護持し、布教していくにあたっては、様々な「難」を受けるだろうが、それは起こるべくして起こるのであるから、ひるむことなくそのまま進め、ということです。
長い文章にお付き合いくださりありがとうございました。
☆☆☆
無道心の者生死をはなるゝ事はなきなり。教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられさせ給ひ、天台大師の南北並びに得一に三寸の舌もて五尺の身をたつ(断)と、伝教大師の南京の諸人に最澄未だ唐都を見ず等といわれさせ給し、皆法華経のゆへなればはじ(恥)ならず。愚人にほめ(讃)られたるは第一のはぢなり。日蓮が御勘気をかほれ(蒙)ば天台、真言の法師等悦ばしくやをもうらん。かつ(且)はむざん(無慙)なり、かつはきくわい(奇怪)なり。
夫釈尊は裟婆に入り、羅什は秦に入り、伝教は尸那に入り、提婆、師子は身をすつ、薬王は臂をやく、上宮は手の皮をはぐ、釈迦菩薩は肉をうる、楽法は骨を筆とす。天台の云く「適時而已」等云云。仏法は時による(依)べし。日蓮が流罪は今生の小苦なればなげかしからず。後生には大楽をうくべければ大に悦ばし。
☆☆☆
- [2006/02/03 02:37]
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コメント
たまたま通りがかりました
はじめまして。
私は、学会員であります。よく御書を研鑚されてますね!
すばらしいです。
日顕宗をなぜ学会をせめるか、まだまだ私が論ぜれるほどの身ではありますが、書かせていただきます。
御書1494ページ
いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにもせめざれば得道ありがたし
とあります。
通解
どのような大善をつくり、法華経を千万部も読み、書き写し、一念三千の修行を成就したひとであっても、法華経の敵を責めなければ仏道を得ることはできないのである
とある通り
日蓮大聖人は、どんなに仏道修行を重ねても、法華経の敵を責めなければ成仏することはできないと仰せです。
創価学会は創立以来、どこまでも日蓮大聖人直結の信心にたち現実に妙法を弘め、万人の幸福と世界平和実現のために活動を展開してきました。
それとは正反対に、日蓮大聖人の仏法の教義と御精神にことごとく違背し、あろうことか広宣流布を破壊しようとしたのが宗門の法主(宗門の中心者)であった日顕です。
すなわち現代の一凶、法華経の敵とは、謗法(正法を謗ること)の法主、日顕であり、日顕およびその後継者が支配する現宗門 日顕宗 に他なりません。
仏法を破壊しようとする働きこそ民衆を不幸に陥れる根源悪の正体にほかならないからです。また、悪を打ち破っていく戦いじたいが、個人の成仏の境涯を開く実践となるからです。
日顕が実際何をしてきたか書くと長くなるので友人の学会員の方に聞いてみてください。
長々と申し訳ありませんでした
はじめまして。
コメント嬉しいです。
学会員の方であれば、なおさらです。
感情を害した部分もあるかもしれませんが、その点はご容赦願います。
私が学会員になることは多分ないでしょうけど、学会員の人は、憎めない場合が多いです。創価学会は嫌いでも学会員はわりと好きなんですよね。
何を信ずるかは人の聖域でありますから、変えろとかやめろとか強く言う気は全然ないのですが、あなた様にも、できれば創価学会は抜けていただきたい。
あの聖教新聞の激越な論調は、日蓮由来の創価学会らしいといえばらしいのですが、日顕氏に対する言葉があまりに汚すぎます。
日顕にも仏性があるのであれば、蛇蝎の如く罵倒する姿勢には矛盾を感じます。
なにはともあれ、ご訪問有難うございました。
勉強になりました。
会員です。いつの書き込みか存じ上げませんがコメントさせていただきます。
おっしゃっることごもっとも。
外部の方でも意味を汲み取り通ずることができるんですね、御書ってすごいです、大変勉強になりました。
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