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伝統について (皇室典範改正問題に絡んで) 

先日、皇室典範に関する記事についてやや批判的なコメントをいただいたのですが、私も少々言葉足らずなところがあったように思いますので、少し補足をしたいと思います。

前の記事の中で、
「男系天皇を維持すべきというその根拠を示せ。根拠がはっきりしないものを安易に信じ、それを「伝統」に祭り上げようとするような精神的態度は、様々な差別の温床ともなる。」
というようなことを書いたのですが、

それに対し、
「科学的合理主義が唯一の正しい思考か?」
「合理的な理由の無いモノに価値が無いと言うんだったらヒトの存在そのものに合理的な理由が有るのか?」

とのコメントをいただきました。


私は「客観的な合理性」が必要であると言いたかった訳ではなく、ただ単に一応の「根拠」が存在するべきだと言いたかったのです。別にその根拠について熟知している必要は必ずしもありません。ある人を心から信用していて、その人がある事実をYESと言ったから、自分もその事実を信じる、というようなことでも立派な根拠であると考えます。


その以前書いた記事の中で、
天皇であっても一般市民であっても、人としての尊さや命の重さには何の差もない、というようなことも主張しましたが、

これとて、客観的な合理性などというものはありません。
いわば私の信仰・信念に過ぎません。

ただその主張には私なりの根拠があります。

短いながらも、私のこれまでの人生経験も一つの根拠。
このブログで紹介するような先人たちの教えも一つの根拠。
生物学的な見地から見て何ら差異がないことも一つの根拠。
何らかの客観的基準又は価値観に従って他人を自分より低い者とみなすことによって相対的に自己の自尊心を満たそうとするような心理的な特性が人間に存在することも一つの根拠。
私自身の人間に対する性悪説的な捉え方とて一つの根拠。
そして最大の根拠としては、
人の命あるいは人の存在に様々な観点から上下・軽重のレッテルを貼って差別化するその眼差しが、たとえ一部の人に対してであれ、人間にいわれのない苦しみを与え続けてきたというその事実と、故なき苦しみを多くもたらすような代物は間違っているという私の考え方そのものです。

ある意味合理性を求めている面はありますが、「科学的合理主義」とまで言えるような根拠にはなっていません。

もっと言えば、例えば「おばあちゃんがそう教えてくれたから」でもいいわけです(おばあちゃんを信用している限りは)。


伝統を重んじて男系天皇を維持すべきとする人は「伝統だから」と言いますが、
それは「男系天皇を維持すべき」という主張だけでなく、幾星霜を経て存続してきたあらゆることに通じる、一般論に過ぎません。

私が言うところの「根拠」には、その一般論は馴染みません。

直接「男系天皇を維持すべき」という主張を土台付けるものでなければ、私はそれを根拠と呼びません。


ただ唯一認めていいと思うのは(偉そうですみません)、ある特定の事実を肯定し受け継いできた多くの人間の判断を信じるという立場です。

「大多数の人間が信じて受け入れている事実は正しいに違いない」と考えるのであれば、それは立派な根拠だと思います。

その意味で「伝統だから」というのであれば、私は何も否定しません。

しかし実際はどうでしょうか?


「伝統だから」と言う人に問いますが、

長きにわたって多数の人が認めてきた事実に信憑性を感じて「伝統だから」というのですか?

それとも、

ただ単に長きにわたって続いてきたという形式的な事実そのものだけを取り上げて「伝統だから」というのですか?

私は、後者に組する人の精神はやや動物的だと思います。一種の思考停止状態に陥っているものと感じます。

お母さんであってもお父さんであっても、その人を信用するがゆえにその言葉を受け入れるのであれば、ちゃんと思考していると言えます。

しかし、ただなんとなく「そういうことになってるからそうなんだろう」と漠然と受け入れた事実(大多数の人にとって天皇制も然り。)を、ただ「伝統だから」と言う人の中に私は何ら根拠を見いだせません。

迷信でも何でもいいんです。

何かを積極的に信じるという姿勢を持っていることが、「根拠」を有していることの一つの証左になると思います。


コメントへの直接の返事になりますが、人間の存在について積極的な合理性を説明できないからといって価値がないなどとは思いません。

合理性は説明できないけれども、私の中では、私の信じるところの理由なり目的なりが一応存在します。

だから、私にとって人間の存在は価値のあるものです。


「合理性が不可欠」などという立場は、むしろ私が嫌うところのものです。



信じて疑わなければ、小さな子どものように信じて一点の疑いもなければ、富士山だって動かせると、


私本気で信じてますから…。


長い文章、最後まで付き合ってくださり有難うございました。
(わけがわからなかったらゴメンナサイ。文章書くの下手で…。)




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