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熱意は不幸の友なり。熱意は悲哀の隣なり。 北村透谷 

北村透谷の「熱意」という題名の文章の中の一節です。

久しぶりに読んだのですが、こんな一節があったことはすっかり忘れていました。

北村透谷という人の人生観が垣間見えるこの文章を是非紹介したいと思います。その流麗な筆致も味わっていただきたい。

さほど長くもないので思い切って全文を転載したいと思います。


文章は、著作権切れの作品を公開している「青空文庫」というサイトから転載しました。

私が一番好きな「夕観」はまだ公開されておりません。
現在作業中とのことですが、公開されましたら是非とも紹介したいと思います。

ではどうぞ。


☆☆☆

真贄(しんし)の隣に熱意なる者あり。人性の中に若(も)し「熱意」なる原素を取去らば、詩人といふ職業は今日の栄誉を荷(にな)ふこと能はざるべし。すべての情感の底に「熱意」あり。すべての事業の底に熱意あり。凡(すべ)ての愛情の底に熱意あり。若しヒユーマニチーの中に「熱意」なるもの無かりせば、恐らく人間は歴史なき他の四足動物の如くなりしなるべし。
 労働と休眠は物質的人間の大法なり、然れども熱意は眠るべき時に人を醒(さ)ますなり。快楽と安逸は人間の必然の希望なり、然れども熱意は快楽と安逸とを放棄して、苦痛に進入せしむることあり。生は人の欲する所、死は人の恐るゝ所、然るに熱意は人をして生を捐(す)て、死を甘受する事あらしむ。人間の事恒(つね)に「己」を繞(めぐ)りて成れり、己を去つて人間の活動なし、然るを熱意は往々にして「己」を離れ、身を軽んじて、「他」の為に犠牲とならしむる事あり。愛国家の心霊を鼓舞して、天下蒼生の為に、赫々(かくかく)たる功業を奏せしむるものもこの熱意なり。忠臣君の為に死し、孝子親の為に苦しむも、この熱意あればなり。恋人の相思も、讐仇の怨悪も、その原素に於ては即ち一なり。人間を高うするものも、人間を卑(ひく)うするものも、義人を起(たゝ)すものも、盗児を生ずるものも、その原素に於ては、この熱意の外あることなし。
 熱意とは何ぞや。感情の激甚に外ならざるなり。感情の中の感情たるに外ならざるなり。且つ湧き且つ静まり、且つ燃え且つ消ゆる感情の、一定の事物の上に接続して、連鎖の如き現象を呈する者、即ち熱意なり。人間は道義的生命の中心として、愛を有(も)つと共に、感情的生命の中心として熱意を有つなり。熱意は凡ての事業に結局を与ふる者なり。痴情の熱意には、痴情の結局を見るの意味あり。節義の熱意には、節義の結局を見るの意味あり。熱意は常に結局を睨(にら)んで立てり。熱意の終るところは結局にあり。
 人間の五官は、霊魂と自然との中間に立てる交渉器なり。霊魂をして自然を制せしむる是なり、而して人間の霊魂をして全く自然を離れて独立せしめざる者も、亦た是なり。霊魂の一側は常に此の交渉器を通じて、自然と相対峙す、而して霊魂の他の一側は、他の方面より「想像」の眼を仮りて、自然の向うを見るなり、自然を超えて、自然以外の物を視るなり。人に想像あるは、人に思求あるを示めす者なり。人に思求あるは、人に熱意あるを示めす者なり。熱意は冷淡と相反す。冷淡は人を閑殺し、熱意は人を活動的ならしむ。冷淡は思求なき時の心霊の有様にして、人生の意味少なき塲合を指すなり。
 幸福なる生涯には、熱意なる者少なし。熱意は不幸の友なり。熱意は悲哀の隣なり。幽沢(いうたく)邃谷(すゐこく)の中に濃密なる雲霧を屯(たむろ)せしむ。平地には斯(かく)の如き事あらず。国乱れて忠臣興るなり。家破れて英児現はるゝなり。遂げ難き相思益恋情を激発し、成し難きの事業愈志気を奮励す。不幸の観念は何物をか捉へんとして、捉ふること能はざるより生ずるなり、此の観念の存在する限は、心霊の平衡を失ひたる者にして、熱意なる者は蓋(けだ)し此の平衡を回復せんが為に存するなり。磁石に消極積極の二質あり、この二質が平均せざる限は、引力といふ不可思議の力を此世より絶つこと能はざるなり。斯の如く人間も亦た心霊の平衡を回復せざる限りは、熱意といふ不可思議の力を絶つこと能はざるなり。熱意は力なり。必らず到着せんとするところを指せる、一種の引力なり。この引力は人をして適(たまた)ま偉大なる人物とならしめ、適ま醜悪なる行為をなさしめ、或は善、或は悪、或は聖愛、或は痴情、等の名を衣(き)たる百般の光景を現出して、人生を変幻極まりなきドラマたらしむ。
 人は夢の如き事実を追随する事あり。事実の如き夢を追随する事あり。虚心を以て観る時は、夢にして、而して熱意を以て観る時は、事実の如く視らるゝ者あり、熱意を以て観る時は、夢にして、而して虚心を以て観る時は、事実の如く視らるゝ者あり。虚心は想像を容れず、熱意は想像の好友なればなり。虚心は徹頭徹尾、事実の中に注ぎ、熱意は往々にして、想像の跡を追ふて事実の域を脱す。虚心は意味ある者を意味なくし、熱意は意味なき者に意味を加ふ。虚心は波瀾を抑へ、熱意は風濤(ふうたう)を生ず。諒解力は常に道理と伴はず。道理は能く人を制抑し、諒解力は能く人を興発す。夢と事実とは、其物の夢と事実とにあらず、之を夢とする者と之を事実とする者との別あるのみ。預言者の先見は夢の如くにして而して事実なる事あり、商売人の蓄財は事実の如くにして而して夢なる事あり。熱意は凡ての事に洗礼を施す者なり。熱意なきは活火なきなり。活火なきは意味なきなり。
 意味多き生涯と、意味少なき生涯とは、プロビデンスの手に握れる斧の撃ち方の相異より生ずる差別なり。人間の額上に刻める皴波(しわなみ)は即ち、意味多きと意味少なきとを見分けべき字引の一種なり。
 人生を解釈せんとする者は詩人なり、而して、詩人の、尤も留意するところは、意味の一字にあり。熱意は即ち意味なり。全く熱意なくして意味ある者あらず。意味を生ずるものは熱意なり。人生に意味あるは即ち熱意あるが故なり。熱意あるが故に、執着あり。執着あるが故に、困難あり、又た不幸あり。悲哀なる出し物に対して、悲哀の同感を生ずるは、彼方の熱意が此方の熱意を誘発すればなり。熱意はトラゼヂーの要素にして、而して、悲哀の物に対する快感の要素の一なり。人生に熱意あるは、即ち戯曲にトラゼヂーある所以なり。熱意、之れ詩人が討究すべき一題目ならずや。

(明治二十六年六月)

☆☆☆


最後に出てくる「トラゼヂー」は、おそらく「悲劇」を意味する「トラジェディー(tragedy)」 を意味していると思います。

北村透谷は25歳にして自殺したとのことですが、自殺の理由はともかく、その若さでどうしてこんな文章が書けるのか不思議でなりません。

いわゆる名文ではないかもしれませんが、まさに言葉を自由自在に駆使しているという感じです。

この文章の中であえて「名言」を一つ挙げるとするならば、


「幸福なる生涯には、熱意なる者少なし。」


これかなと思います。




近頃「熱意」が欠けていたせいでしょうか。

はっとする言葉でした。



何かに「燃える」ってなかなか難しいんですよね…。




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