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愛は、愛とは、愛するとは… 

愛についてのエックハルトの説教にこんなのがあります。

資料が手元にないので記憶を頼りに引用してみます。



ある仲睦まじい夫婦がおり平和に暮らしていたが、ある時、妻の方が目の病気を患い、結局、片方の眼球を失ってしまった。

妻は目を失ったことで、夫から愛されなくなるのではと考え、ひどく悲しんだ。

夫がいくら「お前が目を失ってもお前のことは変わらず愛しているよ」と言ってもどうしても妻は信じてくれず、心は悲しみに打ちひしがれたままであった。

妻は「前と同じであるはずがない」と頑なに思い込んでしまっていた。




夫は…、

自らの片目をえぐり、妻と同じ状態にして妻に言った。

「これで信じてくれるかい? 私はお前のことを愛している。」



エックハルトが「愛とは何か」ということについて説明した部分です。

一体エックハルトは何を言いたいのだろうか?


エックハルトはカトリック修道院の院長だった人で、パリ大学の教授でもあった人です。

キリスト教がベースにあることは間違いありません。

そのキリスト教では、神が「人の子」の姿をとって地上に現れ、人の罪を贖うために十字架にかけられ、殺され、三日目に蘇ったとされています。

紀元0年前後というのは、ソクラテスや仏陀よりもずっと後のことであり、イエス・キリストに関する客観的な資料というのは普通に思われているよりはたくさんあります。

復活があったかどうかについては、ここでは触れないことにします。

とても紙面が足りません。


問題は、神が人を愛されたということです。

そして、時間と空間を超越している「神」が人間の肉体をまとってこの地上に生まれたということ自体が、そもそも人に対する神の愛の形の一つであったということです。


エックハルトの例え話でいう「自らの目をえぐった」という行為に相当するわけです。


少し現実の話に戻しますが、

愛しているって相手に理解してもらうのって容易なことじゃない。



でも、

何かをプレゼントした場合、その品物の価値というよりは、そのプレゼントをするために注いだ「何か」に感激して相手の愛を信じることはあるかもしれません。

O・ヘンリーの「賢者の贈り物」という有名な話があります。二人が相手に贈ったものはどちらも無駄になってしまったけれど、二人は互いの愛をしっかりと確かめ合ったというお話です。

夫は愛する妻のために自慢の時計を売ってクシを買い、妻は愛する夫のために自慢の黒髪を売って時計用の鎖を買ったわけですが、肝心の時計も髪もすでになかったわけです。



これが愛でないと言うわけにはいきません。

しかしエックハルトの説明する「愛」はこれとは何かが違う。


「愛というものは、愛されるということよりも、むしろ愛することに存する。」というアリストテレスの名言がありますが、愛されているだけでは「愛」のことは分からないと思う。

この点についてはオルダス・ハクスリーという人も「やりかたやハウツーなんてない。ただ愛することによってしか、愛し方なんてわからないんだ。」という名言を残している。


しかし目をえぐるほどの行為とはなんであろうか?



ヘミングウェイの言葉にこんなのがあります。

「二人のうちどちらかがいるところには、いつも二人ともいるんだよ。」


この言葉はとても気に入っていて、いつかタイミングをみて私の彼女(K美さん)にも伝えようかともくろんでいますが、

「どんなに愛しているかを話すことができるのは、すこしも愛してないからである。」というべトラルカという人の言葉もあるので要注意である。


でも、そのヘミングウェイの言葉の中に何かの答えがあるような気がします。


自分のことのように相手を思いやれること。

厳密に言えば、恐ろしく難しいことです。



例えば、夫が妻の悩みを理解したくてとる究極の行動って、もしかすると男のあれをちょん切ることかもしれない。

女の気持ちなんて、本当の意味では男には分かりようもない。

でも最大限理解し共感したいと思えば、そんな行動をとることも一つの選択肢かもしれない。



ヘミングウェイのような言葉は、ちょん切るとまではいかなくても、それに近い何かを行ってこそ吐ける言葉なのかもしれない。



エックハルト……。

あなたはどういう意味であの例え話をされたんでしょうか?



簡単に理解できるとは思いませんが、

どうかヒントだけでも与えてほしく思います…。



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はじめまして。

ご訪問、超うれしいです。

お尋ねの件ですが、出典は「誰がために鐘は鳴る」の最後の方の場面かと思われます。

該当部分をサイトで探してみましたら次のような箇所を発見したので紹介しますね。古い英語が混じってるので分かりにくいと思いますが、robert jordan が死ぬ間際にmariaに言った言葉です。
途中の「/(スラッシュ)」は意味不明です。
本屋さんでぱらぱらと最後の部分をめくったらはっきりするかなあと思います。
えーと、では紹介します。
「'thou wilt go now, rabbit. but i go with thee. as long as there is one of us there is both of us./if thou goest then i go , too. do you not see how it is? whichever one there is, is both.」

この言葉の中の「as long as there is one of us there is both of us」の部分か又は「whichever one there is, is both.」の部分かどちらかだと思います。どちらもほぼ同じ意味かと思います。

この作品はいつか私も読んでみたいと思っています。何か自分を映し出す鏡のような作品だとの評価があるようですが、さて何が映ることやら。

また気が向いたら遊びに来てくださいね。
(忙しく、更新サボってますけどね…。)

ヘミングウェイ

はじめまして。いつも、このサイトには癒されてます。名言もさることながら、何気ない管理人さんのコラムも面白いです!!

ひとつ質問があるのですが、ヘミングウェイの「二人のうちどちらかがいるところには、いつも二人ともいるんだよ。」 という名言は、どの作品の中に出てくる言葉なのでしょうか?ぜひ読んでみたいので、もし知っておられましたら教えてください。お願いします。

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