あの「黄金律」の重大な誤訳について
黄金律が本当に誤訳だとすると、
世界がひっくり返るとまではいきませんが、
相当に重大です。
これ以上影響の大きい誤訳もまずないのではないでしょうか。
黄金律というのは、
「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。(ルカの福音書 6章31節)」
という、
おそらく最も有名なキリストの教えのことです。
ご存知の方も多いでしょう。
ちなみにこの少し前の部分には、これまた有名な「敵を愛し、憎む者に親切にせよ」とか「あなたの頬を打つ者には他の頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。」などの言葉があります。
なぜ誤訳と思うのかといいますと、
ある牧師さんがその運営されている「バイブルネット」というウェブサイトにおいて、「ギリシャ語原文を無視した重大な誤訳である」と主張されているのをある程度信用したからです。
その牧師さんによれば、正当な翻訳は、
「あなた方はこう願い続けなさい。人びとがあなたに行なおうとしている事を、そのままあなたが彼らに行えるように。」
ということになります。
つまり、
善いことをすればそれが自分に同じように返ってくるし、悪いことをすればやはり自分に同じように返ってくるという神の摂理(この世を支配する大原則とでもいいましょうか。)どおり行なえるように願いなさい、といった意味になります。
行ないなさいではなくて、願いなさい、です。
人間は、自分が受けた通りにその人にお返しをするということが完全にできるわけではないので神に願いなさい、ということです。
最初に掲げた「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」という言葉は、一つの行動規範としてはそれなりの価値があるでしょうが、これでは意味が全く異なってしまいます。
誤訳と指摘された方は、あるべき愛の姿を示すものです。
正しい翻訳として(牧師さんが)指摘された方は、神の摂理あるいは神の義(英語ではrighteousness、つまり正しさといった意味です。)を示すものです。
キリスト教といえば神の愛(アガペーなどとも言われます。)が特に強調されますが、この部分についてはむしろ神の義が説かれているというわけです。
他にも数多く誤訳があると言うその牧師さんの主張を全面的に受け入れるとすれば、キリスト教というのは一般に思われているよりも因果応報の原理が強調されていることになります。
旧約聖書に限って言えば、もともと「行いに対してはその行いに応じた報いがある。」という感じの言葉が多く、神の厳しさや正しさがどちらかといえば強調されていますので(ただし、旧約聖書を何度も読んだというわけではないので、あくまで私の受けた印象です。)、黄金律などが誤訳であるとすれば、旧約・新約を通じての整合性はより高まると言えるのかもしれません。
私が素直に思ったのは、
人はその行いに応じた報いを受けるという原理あるいは法則というのは、
やっぱり本当なのかな、
ということです。
ただし、よくなされる議論ですが、
今幸福な人は過去の行いが善かったとか、今不幸な人は過去の行いが悪かったとか、そういう風に単純に捉えるのは浅はかだと思います。
そもそも本当の幸福が何なのかなんておよそ誰も分かってない。
私が思うには、
本当の幸福と言えるものは永遠に続くものだけです。そうなると一般に世の中で幸せと言われているものは全て対象外になってしまいますが、やはり私はそう思います。
大きな苦しみを背負った人に対して「あいつはよっぽど業が深いんだな」とか簡単に考える人については、心から悲しく思います。またその浅はかさを怒りも感じます。
今の状況を見て過去の行いがどうだとか判断することは意味がありません。大事なのは、未来に向かってどう行動するかです。
黄金律が誤訳であるかどうか、はっきりいって私には分かりませんが、牧師さんが修正された翻訳の方が人間にとって救いになるような気がします。
長くなりましたので、これにて。
- [2005/10/19 18:17]
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