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エックハルトでほっと一息 

心が妙に寂しい時ってありますよね。

家族や友人や恋人がいないわけじゃないのに、なんだか取り残されたようなひどく孤独な感覚に陥るんです。

夜中とかが多いかもしれない。

そんなときのために私には特別な言葉があります。

それをいくつか紹介したいと思います。
エックハルトの言葉です。


☆☆☆

誰かが生に向かって「お前は何故生きるのか」と千年もの間問い続けるとしても、もし生が答えることが出来るならば、「私は生きるが故に生きる」と答えるのみであろう。それは、生がそれ自身から、それ自身の固有の根底から生きるからであり、それ自身からこんこんと湧き出るからである。その故に、生は、それがそれ自身を生きるまさにそのところにおいて「何故なしに」生きているのである。



ある師は、目が歌とは関係なく、耳が色と関係がないように、魂はその本性においては、この世界のすべてのものと関係がないのであると言っている。それゆえに自然学の師たちは、魂が体の内にあるというよりも、むしろ体が魂の内にあるのだと言っている。
ワインが樽を容れるのではなく、樽がワインを容れるように、体が魂を保有するのではなく、魂がその内に体を保有するのである。



人が放下し得る最高にして究極的なことは、神を神のために放下することである。



私は言う、神我らと共に苦悩し給うと。彼は御自ら我らと苦悩を共にし給うのである。神は実に神特有の仕方において、神のために悩む人間よりは比較にならないほど激しく苦悩し給うのである。私は敢えて言う、もし神が御自ら苦悩することを欲し給うならば、私は神の欲し給うことを欲するのが当然である。



神は私よりも私に近く存在します。



あなたたちを乗せて完全の域へと運んでくれる最も足の速い動物は、苦しみである。

☆☆☆


エックハルトを知らない人は多いと思います。

13世紀にドイツ中部に生まれ、後にはカトリック・ドミニコ会の総長代理にまでなった方なのですが、後には異端者扱いをされることになります。なぜそんなことになったかというと、

ごく簡単に言ってしまえば、
「何故に神は人となり給うたか? 私が同じ神として生れんがためである。」といったような言葉を、当時のカトリック教会が受け入れなかったからです。

しかし彼の言葉は、600年以上経った今でもなお、力があり、ある種の権威があり、そして真実性に満ちています(私はそう思います)。

現在においては、ヤコブ・ベーメとともに、ドイツ神秘主義(神秘といってもいわゆる「スピリチュアル」とか「オカルト」とは全く違う意味です。)の双璧といってよい存在となっています。

心理学者のカール・グスタフ・ユングがその著書「アイオーン」の中でエックハルトを「自由な精神の木に咲く最も美わしき花」と称えたことはわりと知られたところです。

禅を世界に広めた鈴木大拙もしかり。あのニーチェもしかり。

エックハルトに一目を置いていました。

私なんかは一目どころか百目ぐらい置いています。

仏教とキリスト教をつなぐ特異的な存在として捉えられることも多いようですが、エックハルトは、なにかそういった宗教の形を超えたところで言葉を発していたように思います。

実は一番紹介したかった言葉があったのですが、それが載っていた本は人にあげてしまって手元にありません。

神の愛を、例え話をもちいて説いている部分です。

これはまたの機会に紹介したいと思います。


講談社から「神の慰めの書」、岩波文庫から「エックハルト説教集」が出ていますので興味のある方は是非読んでみてください。

私が初めてこの人の言葉に接したときの印象は、

「なんという人だ。なんという言葉だ。」というものでした。

ある程度キリスト教の知識がないと分かりづらい部分もあると思いますが、かえって余計な固定観念がない方がいいのかもしれません。

本が絶版になっている可能性はありますが、

私にとっては、100万円出しても、200万円出しても惜しくない本です。
(でも5000万円て言われたら、ちょっと…。)



では、これにて失礼します。

ご訪問まことにありがとうございました。




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エックハルトの研究をブログに書いています。よろしければ、訪れていただければ幸いです。

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