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たかが貧乏、されど貧乏… 

貧乏はつらい…。

いまはとっても貧乏。

いつかもう少しましな状態になったとしても、



この気持ちは持ち続けていこう。


貧乏にあえぐ人が一人もいなくなるその日まで。


阿弥陀仏のように。



なぜ阿弥陀仏?


阿弥陀仏の四十八誓願(又は四十八願)というのがあります。

もっと正確に言えば、阿弥陀仏が、阿弥陀仏となる前の法蔵菩薩であった時に立てた誓願です。
大無量寿経というお経に延々と記されています。


その四十八誓願になぞらえたわけです。


 …

ちょっと恐れ多くなってきました…。


阿弥陀仏様、すみません。



私は別に浄土真宗の信徒とかではありませんが、

話のついでに、もう少し説明を加えたいと思います。



さて、

法蔵菩薩はその四十八個の誓願をすべて成就され、そして阿弥陀仏となりました。

とてつもない長い時間(五劫と表現されます。)を要したとのことです。


知らない方も多いと思うので、
阿弥陀仏の四十八誓願をいくつか紹介したいと思います。


☆☆☆

第1願

私が仏になるとき、私の国に地獄、餓鬼、畜生のものがいるようなら、私はさとりを開きません。

第18願

私が仏になるとき、あらゆる人たちが、私の至心をよりどころに、往生まちがいないという思いから、ただ念仏を申す身となるように育てます。それでも私の国に生まれることが出来ないようなら、私はさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の正しいみ教えを謗ったりする人だけは除きます。
(この誓願は、法然が重視して浄土宗の根幹に据えたものであって、「王本願」と呼ばれています。)

第25願

私が仏になるとき、国中の菩薩が、あらゆる智慧をもって思いのままにに説法することが出来ないようなら、私はさとりを開きません。

第34願

私が仏になるとき、十方世界のあらゆる衆生が、我が名を聞いて、涅槃を得るに間違いのない身となり、もろもろの深い智慧をえることができないならば、私はさとりを開きません。

第39願

私が仏になるとき、国中の人々や天人が受ける楽しみが、煩悩の全くなくなった聖者のようにならなければ、私はさとりを開きません。


☆☆☆



昔、新聞配達をしていたころ、
お昼ごろ、公園で見知らぬおじさんにこの四十八誓願の話をしたことがあります。そして、そのおじさんが何故だか涙を流したのを覚えています。

今思うと、なんであのシチュエーションであんな話をしたのか不思議だけれど、

なんとなく話したかったんだと思います。


身なりはあまりきちんとした感じではなく、どちらかといえばみすぼらしい格好でした。


あらためて思い起こすと、

そんな話をするほうもするほうだけれど、

それを聞いて泣くほうも泣くほうですね。

ちょっと話しただけだったんですけど。


四十八誓願のうち何をどのように話したのかは、それこそ全く覚えていません。

おそらくは、「すべての衆生が悟りを得るまでは、私は決して涅槃に入らない。」という誓願について話したのだとは思いますが。


しかし、疑問に思う人もいるかもしれません。



法蔵菩薩が四十八願のすべて成就され、阿弥陀如来となったというのであれば、われわれはすでに救われているということになりはしないか?

しかし、現実は違うではないか?


でも法蔵菩薩は確かに阿弥陀如来となったのです。


この一種のパラドックスのような構造については、とても2行や3行で語れるものではなく、またの機会に考えたいと思います。


この点を真剣に取り上げる人はほとんどいないと思いますが、

中にはまじめに研究する方もいるようです。



えーと、またずるずると長くなってしまったので、

ここいらで筆を擱きたいと思います。


いや、待てよ、キーボードだから…、

んー、んー、 なんと言えばよいのか…。


思いつかない…。


まあ、いいか…。


なにはともあれ、

ここまでお付き合いくださいまして、
まことにありがとうございました。




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