ちょっと前から父が韓国語を習いだしている。動機はいまひとつ定かではないけど、何か仕事上の付き合いがきっかけだったらしい。
その父が言っていたのだが、韓国語には受身形が存在しないらしい。
たとえば「泥棒に入られた」という言い方をすることはできず、「泥棒が入った」と言うしかないそうである。最初はそんな馬鹿なと思ったけれど、確かに受身形がなくてもたいていのことは表現できそうだ。
「十分に焼かれた肉」などのように一見受身形でしか表現できなさそうな言葉も、「誰それが十分に焼いた肉」という風に言えばいいわけである。
不自由な気がしてなりませんが、これも個々の言語が持つ一つの個性なのだと思う。
いつだったか、石原都知事がフランス語について「数を数えられない言語」と侮辱したことで批判を浴びたけど、それもやはりフランス語の個性でしょう。
日本語にだって外国人から見れば欠陥言語と判断されかねない要素はあるものです。
例えば複数形がそうだ。
日本語には基本的に複数形がない。
「たち」は生物か又は愛着のある物にしか使えない。カーテンたち、リンゴたちとは言わないであろう。(松田聖子の曲に「ガラスの林檎たち」ってのはありましたけどね。)
「ら」はほとんど人間にしか使えない。彼ら、俺ら、消防士ら、学生らとは言うけれど、ウサギら、テレビらなどとは言わない。
翻訳業なんぞをやっているとこの複数形の壁に突き当たることがよくある。たとえば日本語の「本」を英語に訳す場合、「a book」とするか「books」とするかは文脈を慎重に捉えないと判断がつかないんです。2冊以上になることがあり得ない場合にしか「a book」は使えないんです。
法律関係の文章なんかだと絶対的な正確性を問われますので、曖昧に訳すわけにもいかず頭を抱えてしまいます。
ただ、複数形がないことが良いのか悪いのかと問われれば、私なんかは、いちいち単数か複数かを考えて喋ったり書いたりしなきゃならない英語は面倒くさい言語だ、などと思ってしまいます。
たとえば一個の場合も複数の場合も含めた「林檎」を表現したい時、日本語だと「林檎」で済んだりするんですが、英語だと「one or more apple」とか「one (or more than one) apple」とか「an apple or apples」などとするしかない。なんとなく窮屈な感じがします。
しかし反対に、日本語で「林檎」と書いただけでは一個なのか複数個なのかさっぱり分からないのも事実。誤解の元にもなりかねないところです。
話は韓国語に戻りますが、
韓国では昔はハングルと漢字を混合して使っていたのに、ある時期から政策として漢字を教えないようになったそうです。で、今はまた漢字を教えているそうです。政策の影響は大きいですね。
我々にとって必要不可欠な言語は意外ともろい地盤の上に立っているということでしょうか。
日本でも、ビジネス系(コンピュータ関連かな?)の文書をカタカナ表記で統一していた時期もあったそうですが、タイプライターの時代が終わり、かな漢字変換のできるワープロの普及するにつれて、カタカナ表記の必要性はなくなってしまいました。言語の態様は技術革新によっても大きく左右されるという好例でしょう。
大事な言語ですから、言語に関する政策はもとより、我々自身の言語の使い方にもある程度の注意を払っていくべきでしょう。
自然に任せればいいという意見もありそうですが、やはり一定の歯止めは必要なんではないでしょうか。
移ろいやすい言語であればこそ、自国の言語も他国の言語も尊重の念をもって守り育てていく姿勢が肝要かと思います。(他国の言語は守りようがないですけどね。)
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