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物事の善悪は変わるか変わらぬか…? 

私の10月3日の記事に対する「とある管理人」氏のコメントへの返答に代えて、ここで道徳について論じたい。

ここまでのやり取りは別にページを作ってアップロードしてありますので、もし良かったらご覧ください。(コチラです。)

テーマになっているのは、大雑把に言えば、時代の変遷につれて変わっていくことのない絶対的・固定的な善悪の規範が存在するのか、ということです。

まず意見がほぼ一致している部分を確認したい。

道徳的規範が形成されるにあたっての型枠でもあり材料でもあるところの人間の良心感情や心理的性向(本能という言葉を多用してきましたが、やや曖昧な表現ですので今後は使わないことにします。単に本性といってもいいかもしれません。)が流動的なものであるという点。

そして、仮にある時代の道徳観念が後の世において「いびつだった」と評価されようと、その時代の多くの人々が異存なく共有していた限りにおいては、一定程度までは是認されるべきだという点です。(人身御供とか食人とかの風習は、やはり限度を超えるでしょう。)

「とある管理人」氏と意見がやや異なるのは、道徳的規範がまったくの「根無し草」なのかどうかという点だと思います。(言い方は悪いかもしれませんが他意はありません。)

この場合「根」は、すべての時代のすべての人間に対して適用される、善悪を分かつ絶対的・固定的な基準のことを差しています。


哲学者達は何を言ってるかといえば、

たとえば「道徳の系譜」を著した哲学者フリードリヒ・ニーチェは、同書の中で道徳、特にキリスト教的禁欲主義の形成過程について論じ、

貴族道徳に対峙するところのキリスト教的禁欲主義の淵源を庶民階級の怨恨感情(ルサンチマン)に基づくものだと考え、また、ニーチェの「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである。」という言葉からもわかるとおり、その真の目的を「無に他ならぬ生」からの逃避であると喝破した。


これはこれで深い洞察ではあるかと思うけれど、根源的な道徳敵規範の有無を問うている訳ではなく、どちらかといえば根源的な道徳的規範などはないとの前提で論を進めているようにも思えます。

ただ、思ったのは、根源的な道徳的規範の有無の問題は「人間存在の価値の有無」の問題と直結するのではないか、ということです。

人間の生が無意味なものであれば、半ば必然的に根源的な道徳的規範などはないという結論に至るでしょう。(絶対そうとは言えませんが。)

(※) この場合の「無意味」は、般若心経や中観思想にいう「空」や「空性」を指すのではなく、存在の理由も目的も義務もない単なる虚無という意味で使っています。何が違うのかという点についてはここでは深入りしません。


さて、人間の生が無意味であるか否か、すなわち46億年に亘る地球の歴史において偶発的に発生した生命体の進化の途上における一態様であって、たまたま存在したに過ぎない存在なのか否か、

その科学的な証明などできるはずもなく、これは信仰に部類に属する問題である。

結論付ければ、

神、あるいは神に類する絶対的一者を信じる者にとっては絶対的な善悪は確かに存在するのだろうし、タオイズムや禅(ある意味で仏教も)などを行ずる者にとっては絶対的な善悪は存在しない、ということになろうか。

後者のタオイズムとは老荘思想と同義と考えてよいと思います。

その老子の言葉として「善と悪と相去ること何若ぞ。人の畏るる所、畏れざるべからずも、荒として其れ未だ央きざる哉。(道教 第20章)」というのがありますが、その意味は、「善と悪とにどれほど違いがあろうか。世の人のはばかることは、やはりはばからないわけにはいかないが、そのようなことを詮索するのは広漠としてきりがないことだ。」となります。

「とある管理人」氏の見解はこの後者にやや近いのかなあと思います。

私はといえば、なお前者の見解を捨て切れませんが、後者も間違いではないような気がします。


煙に巻くような言い方かもしれませんが、

絶対的・根源的な道徳的規範が存在するのか否かという問いの答えもまた、絶対的なものではないのかもしれません。

Aさんにとっては前者が正しく、Bさんにとっては後者が正しい、というようなことがあるのかもしれません。

物理学者ヒュー・エヴァレットが半世紀ほど前に提唱した多次元世界解釈(多世界解釈、エヴァレット解釈とも言います。)の考え方にやや似ているかもしれません。

ある事実について正しい世界と正しくない世界が平行して、かつ相交わることなく存在するという見方です。


煙に巻いてしまったでしょうか?

はっきり言いまして、理性というか悟性で結論が出る問題ではないように感じます。

でも面白いテーマではありますし、今後も機会があればまた考えてみたいと思います。


私としては、語りたいことは語ったような気がしますので、いったん意見交換はお休みににしようかと思っています。


今回の記事についてのご感想はぜひ承りたく思いますが、それをもって「とある管理人」さん側の言わば最終弁論にしていただこうかなと考えています。(別に判決でも一向に構いません。)

数々の貴重なご意見、改めてお礼申し上げます。

ありがとうございました。



「とある管理人」さんのブログ「実験場」はコチラ。 



コメント

こんばんわ

コメントありがとうございました。

あえて言えば、「絶対的な道徳的規範がある」という私の信仰もさほど強いものではありません。

ですがその信仰の根拠について少し補足したいと思います。

うまく説明できないかもしれませんが、

絶対的な道徳的規範はないと認めてしまうと、つまるところこの世界は偶然の産物であって何らかの目的をもって存在しているわけではないということをも受け入れることになってしまうから、私は認めたくないんだと思います。

宇宙飛行士として地球から飛び立った人たちの多くが神父や牧師になったという話がありますが、やはりこの地球を外から眺めてみて「このように青く美しく輝く星の存在は偶然の産物ではあり得ない」などと直感したんだと思います。私もそれに近いのかもしれません。

この地球の存在もそうですが、人の持つ「優しさ」や「愛情」といった感情が果たして偶然に発生し得るのかという思いもあります。

結局、その辺が私の「信仰」の根拠なんだと思います。

そして、「とある管理人さん」と同じように、私のその信仰もまた変わり得ると思っています。

おそらく、真理は一つしかないのでしょうけれど、どちらが正しいかを証明する手段すら見当もつかないのが現状でしょう。

そんな状況にある以上は、お互いの考えを尊重していく姿勢は欠かせません。

一つの有力な「真理候補」として、とある管理人さんの意見を胸にしまっておこうかと思います…。

こんにちは

そうでしたか。
論理的に云々できないという意味で私の相対主義が「信仰」なのは、おっしゃる通りです。

ただ、私の「信仰」はそんなに強くないですね。
相対主義について理論武装する気が起きない一因もそこにあると思います。

相対主義的にモノを見る人間というのは、相対主義を強く信じるというよりは、
絶対的な視線なる概念をそもそもよく理解できないというケースが大半でしょう。
そしてここからは人によると思いますが、私は相対主義に強いこだわりはありません。
もし何らかの納得しうるような論理を持って「絶対的」なるものの存在を語られれば当然のことですが、
そうでなくても何らかの受け入れられるような概念をもって「絶対的」なるものを語る者がいれば、
私はあっさり絶対的なるものを信じるでしょう。

その上で、個別の価値について果たしてどれが絶対的かについての論理(こっちは論理的でないと困りますね)を戦わせることになるでしょうね。
それが果たしてどういう構造の論理になるのかわかりませんが。

それでは。

どうもありがとうございました。

こんばんわ

> とある管理人さん

すみません、私の書き方が悪かったようです。「最終弁論」などという言葉を使ってしまいましたが、ある特定の争点についてコメントを求めたわけではなくて、ただ何でもいいから何か感想をおっしゃって欲しかっただけなんです…。

そう意味では、この度いただきました率直なコメントは、まさに望んでいたところのものでした。

あらためて感謝いたします。

最後の「あろうがなかろうが影響を及ぼさない」は、主観的な視線で発言されたのかと思いますが、それは私においても同様に影響を及ぼしません。私たちは来し方も行く末も分からぬまま「現に存在する生」を相対的な価値観に基づいてひたすらに生きる他ありません。

ただ、私は絶対的な視線(いわば神の視線)があるのではないかと「信じる」ということです。

そして、とある管理人さんは、そのようには「信じない」ということなのだと思います。

なんにせよ私にはとても有意義なやり取りでありました。

もしまた気が向きましたら、突っ込みでもなんでも入れてくださいね ♪

おはようございます

「最終弁論」とありますが、この記事のどの論点、または意見についてコメントした方がよいのでしょうか?

絶対的善悪が存在するかどうかについての私の見解は前のコメントの最初の段落で述べた通りとなります。
また、この論点についての興味もそこに述べた程度となり、引用されている哲学者の意見について検討するつもりもなく(それはかなり困難な作業でしょう)、私の方からは特に追加してコメントしようと思う内容はないのですが。

「人間存在の価値の有無」については絶対的善悪と同じ立場
(引用:後者(相対主義)です。根拠はありません。興味あるテーマですが、あまり考えません。)
となります。
私が私の人生のために私の価値観を設計する上で、あろうがなかろうが影響を及ぼさないからです。

こんばんわ

遊太郎さん、いつぞやはコメントをありがとうございました。

いつの間にか、天皇家とは何ぞやという問題から遠ざかってしまいました。

遊太郎さんさしおくつもりはなかったんですが、道徳の問題を片付けないと前に進めないような気がしまして、横道にそれていってしまいました。天皇家の問題については改めて論じたいと思っています。


かような気まぐれなブログに何度も来ていただき恐れ入ります。また何かありましたら遠慮なく書き込んでくださいね。

自分は9月9日付けのこのブログの記事でコメントを書かせてもらったものです。

あれからこのブログを毎日拝見させていただいております。そしたらいつのまにやらこんなに論争が過熱していたとは・・・ぼくをさしおいて(笑)

いままでの記事をきちんと分析していないのでぼくの見解は明記しませんが、ただ一ついえることはこの論争自体に意義があるということです。政治家たちに見せてやりたい(笑)

自分は引き続き様子をみます。こんなに質の高いブログに出会えて非常にうれしく思います。

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