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達磨大師の言葉 「無功徳」 

達磨大師の言葉の中でおそらく最も有名な言葉は、「無功徳」でしょう。でもこれだけじゃさっぱり意味が分からないので、前後の文脈も含めて紹介したいと思います。

「景徳伝灯録」という書物に記録されています。


☆☆☆

帝日く、「朕、即位以来、寺を造り、経を写し、僧を度すること、勝げて(あげて)数うべからず、何の功徳かある」

師日く、「並に無功徳」

帝日く、「何を以てか並に無功徳」

師日く、「人天(人間界と天上界)の小果、有漏の因(煩悩の原因)、影の形に随うが如し。有りといえども実に非ず」

帝日く、「何をか真の功徳と謂う」

師日く、「浄智妙明にして体自ら空寂なり、是の如きの功徳、世に於て求めず」


     「景徳伝灯録」第三巻

☆☆☆

いや、これでもよく分からないと思いますが、この武帝というのは中国の梁という国の初代皇帝だった人で、寺を建立したり、僧を育てたり、写経をしたりと、とても仏教の信仰の篤い方で、自らも仏教の修行をしていたような人でした。「仏心天子」あるいは「皇帝大菩薩」などとも呼ばれていたようです。

そんな皇帝が、インドから中国に渡ってきた達磨に対して「私の功徳はどれほどのものだろうか?」と聞いたわけです。

それに対する達磨大師の答えは「功徳などない」というものでした。

「どうして?」と問われて達磨大師は、

あなたがした行いによって受ける善果は、あくまで人間界・天上界において認識される有限の果報にすぎず、形あるものに従う影のように実体のないものである、と答えたわけです。

自他の区別を超えた絶対性の境地から見れば、真の功徳とは程遠いものであるということでしょう。


さらに食い下がる武帝は「では、真の功徳とは?」とさらに問いました。

これに対し達磨は、

「浄智妙明にして体自ら空寂なり、是の如きの功徳、世に於て求まらず」と答えました。


って、これじゃ原文そのままか。


自信はないけれど解釈すれば、

真の功徳というのは、浄智妙明であってかつ空寂かつ無相な悟りの境地に至ることそのものであって、「人天の小果」を求めるような者には何の縁もないものである、

というようなことを達磨は言っているように思う。


武帝はガックリですよね。


実はこの後に続きがあって、次の問答が続きます。


帝又問う、「如何が是れ聖諦の第一義なるや」

師曰く、「廓然無聖なり」

帝曰く、「朕に対する者は誰ぞ」

師曰く、「識らず(しらず)」


聖諦の第一義というのは、仏法の核心というような意味です。その次の「廓然無聖」も、これまた「無功徳」の次ぐらいに(仏教界においては)有名な言葉だと思います。

読み方は「かくねんむしょう」でいいかと思いますが、その意味は、「とにかくからりとしていて聖も凡もない」というような感じです。

最後の「識らず」ははっきり言って良く分かりません。「識らず」ではなく「識にあらず」と読むべきという人もいます。

武帝の「あなたは誰か?」という、自我意識を前提とした問いに対して、おそらくは「そのような認識の対象になるものではない」と答えたものだと思います。

いわゆる「禅問答」に近いやりとりかと思います。

禅には以前から興味があって、五祖弘忍、六祖慧能などから鈴木大拙、オイゲン・へリゲルなど20世紀の禅者に至るまでいろいろその言葉に接してはきましたが、結局読んだだけでは大事なことは何も分かりません。やはり修行が必要か。

でも修行すれば悟りが得られるという考え自体が、どうも禅の師匠たちに言わせれば大間違いだそうです。目の前に慧能とかいたら、本当に張り倒されます。

理屈は無用なのでしょう。


なんにせよ、武帝は達磨大師に出会えてよかったと思います。その後武帝がどんな風に思ったかは知りませんが、達磨大師の言葉はきっと無駄にはならなかったことでしょう。


日本人の誰もが知ってる「だるまさん」ですが、とってもすごい人なんです。


ただ、それが言いたかっただけです。


禅についてはまた何か書きたいと思います。


ここまでお付き合いくださり、
ありがとうございました。




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