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靖国神社参拝問題を分解すると 

問題のひとつは、戦場で中国の人たちを殺害した人は通常の殺人者(人殺し)とそんなに違うのか、ということ。

もう一つはA級戦犯の霊魂だけを分けて祀る(祀る)ことが原理的にできるか否かということ。つまり「分祀」できるかどうかということ。

さらにもう一つは、中国はいくら謝罪しても納得しないかのように言われることがあるが、逆の立場なら日本は(あるいは日本人は)納得できるのか、ということ。これは第一に挙げた問題と密接に絡む。


簡潔に言えば、
第一の問題点については、
「そんなに違わない」

時代背景がどうであろうと、どこまでいっても人殺しは人殺しである。

もちろん情状酌量の余地は大いにあるとは思うが、無罪になろうはずもない。日本人のいわゆる論客の意見を聞いていると、当時は植民地支配は当たり前だったとか戦争とは一般的にそういうものだとか、なんのかんの言って結局は日本の弁護に偏ってしまっているように思う。

遺族からすれば、誰がどんな事情で殺したよりも、「家族が殺された」という事実のほうがはるかに重いはずである。


ありきたりの言い方ではあるが、
やられた方はよく覚えているけれど、やった方はやられた方に比べればどうしても意識が薄くなる。

昨日たまたま見た「朝まで生テレビ」で田原総一郎もやや近いことを言っていたように思う。

何十万人か何百万人かはよく分からないけれど、相当多くの人間を殺したのであるから、もし中国側に本当に納得してもらおうとするならば、それだけの覚悟が必要である。


極端に言えば、日本人全てが「御免なさい」をすべきなのだ。


日本の中で「御免なさい」を全くしない人がいるということは、一人の人間に例えて言えば、

謝罪の気持ちがありつつも、「こんだけ謝ってんだからもう十分だろ。」という気持ちを抱いているようなものである。

そんなことを思う人というのは、本当の意味では全く謝罪していないといえる。本当の誠意を認めることはできない。

人が死んで、もう戻ってこないのである。
いくら謝ってもこれで十分なんてことは本来はあり得ない。

それを逆手にとってどこまでも金品をせびるというのであれば話は別かもしれないが、中国の人たちがそうだとは私には思えない。

彼らは、首相も閣僚も役人も一般市民も全てひっくるめた日本全体を見ているのであるから、小泉首相のやり方がどうだとか批判する前に我々自身をまず省みるべきである。


全ての国民が一致して謝るということは確かに非現実的ではあるが、それを目指すぐらいの気持ちがあってこそ、彼らは納得してくれるのだと思う。


土下座外交はすべきでない、言いなりになってはならない、などと言って批判する者が少なくないけれど、その批判自体は正当である。というか当たり前である。主権国家なのだから当然である。

中国はそもそも強制しているわけではないし、また強制することなどできはしない。

あくまで日本固有の意思で謝罪することを本当は求めているはずである。

膨大な対中円借款を実施してきたんだからもう十分誠意は見せた、なんていう言い方は、なにかいやらしい気がする。

一言余計なのである。


「十分」という表現がなにかおかしいのである。

国レベル考えるのではなく、個人レベルで考えればもう少し問題の所在がはっきりするような気がします。



長くなってしまったので、
続きは後日に委ねたいと思います。



お付き合いくださり、有難うございました。





   



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