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創価学会に物申す 1 

私は学会員ではないが、学会員との付き合いは10年以上ある。

というか、
学会員でもないのに学会の内部のことこれだけ知ってる人間もあまりいないだろう、というくらいリアルな内部事情を見聞きしている。

以前努めていたある小さなお店では従業員三名のうち二名が学会員。

店主に当たる人と長年お付き合いがあり、
手伝ってもらえないかという誘いがあって勤めていた。


その店主は今は「部長」という立場にある。
「地区リーダー」よりも上の立場である。


この間、その部長さんともう一人(学会員)を交えて小さな忘年会をしたのだが、なにかのきっかけで「財務」の話になった。


「財務」というのはキリスト教会でいう「献金」あるいは「月定献金」のようなものである。クリスチャンと同様、決して強制される類いのものではない。その辺は信じていいと思う。


さて、その忘年会で、
ある別の学会員が、毎回の「財務」を倍々にしていくという誓いをたて、現実に実行しているという話になった。

誓いをたてるのもすごいが、それを実行するのがとにかく賞賛に値するというのだ。


たしかに並大抵の決意ではなかったであろうから、その心意気についてはすごいと思う。


でも、私は思う。


しっかり乗せられてしまってるな、と。

それを言うには機が熟していないので、
特に何も言わなかったけれど、

そういういわば美談によって間接的に「おれももっと頑張るぞ」という気になってしまうという、この一連の流れが私は好きではない。


それ以外にも嫌いなところはいっぱいあるのであるが、そういう雰囲気が特に嫌いである。

何かに酔っているというイメージがぬぐえない。


以前、ある創価学会の会館で行われた「同中」(同時中継の略)に誘われてその会館に行ったのであるが、その会館内の階段の踊り場に掲げられていた池田大作氏の肖像画に違和感を覚えた。

池田大作氏ご自身も自らを「一信徒に過ぎない」と言っているのは、大半の学会員はご存知であろう。

崇められるべきは法華経であり、
「南無妙法蓮華経」の七文字なのである。

池田大作氏を尊敬するのはいいと思う。しかしそれ以上に出ることは池田氏が望むことではないはずである。(とりあえずはそう信じたい。)

尊敬し崇めたいという気持ちはよく理解できるし、そうした行動が悪意に出たものではないというのも信じられる。

でも誰かがいさめるべきである。

池田氏に全ての会館の状況をチェックし、また、全ての信徒の行動をチェックしろというのは無理であろう。

しかしそういった信徒の行動を見越して注意を喚起するぐらいのことはできるはずではないか?

それとも黙認して内心喜んでいるのか?


真実は確かめようもないが、こういったことで私の池田氏に対する不信感は増幅していく。



ややマニアックではあるが、新人間革命第5巻におけるキリスト教批判についても大いに疑義がある。

聖教新聞等でトルストイを紹介し、その生き様を称えたりしている一方でどうしてあんな事が書けるのか??

トルストイはまぎれもなくキリストの復活と罪の贖いを信じるクリスチャンである。それを分かっていながら称えている。


それならそれでいいのだが、新人間革命第5巻においては、その復活や罪の贖いをほぼ否定している。



こんなひどいことはないと思った。私は。

正体見たり、という感じだ。



なんども言うが法華経自体は、
きわめて重要な教えであり、
釈迦の教えの「核心」とも言えるものである。

その教えを護持し流布するという使命を大半の学会員は非常にまじめな気持ちで受け止め、実践しようとしている。それなのにどうしてこう世俗的な欠点が非常に多いのであろうか?

不思議でさえある。


たしかに、
昔よく批判された「折伏」の強引さは今はその影を潜めている。
悪意ではなかったとはいえ、やはり反省したのであろう。


でも、
今でもその実質は変わらない。

入信を迷っている者に対して「何々さんが話を聞きたいと言っているから、少し時間をもらえないか。」などと言い、軽い気持ちでOKして出かけてみると、来るは来るは、結局は10名以上の学会員に囲まれることになる。しかも相当の論客も混じっている。

これは本当である。

私自身が何度となく体験したことである。

私は別に100人来ようとへっちゃらではあるが、宗教的な知識のない普通の一般市民であったならば相当の重圧である。

なにか理詰めで追い込まれてしまうような状況になる。


こういったことは真摯に反省して欲しい。

それができないなら、私は1000年経とうが入信することはない。

絶対にない。

池田氏に対する「崇拝」の話に戻るけれども、
尊敬を超えて何か崇めてしまっているという問題については、是非次に掲げる福音書の箇所を参考にして欲しい。


ルカ福音書18章18節から27節です。
以下引用します。

また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか。」イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母を敬え』」。すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持ちであったからである。イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。


このように、イエス・キリストでさえ自分自身を「よき人」すなわち「崇拝されるべき人」とされることを拒んだのである。

池田大作氏には、責任者として猛省を促したい。

まずは会館に掲げてある池田氏の肖像画を取っ払って欲しい。
そうしないことにはまさに言行不一致である。


言っておくけれども、

私は法華経自体に対しては敬意を払っている。
そんじょそこらの学会員には負けないくらい敬意を払っている。

「勤行」もしないでなんだ、などとお叱りを受けそうであるが、正しい信心があってこその行動であります。


何をどのように信じているかがまずは大事だと思います。


批判等は甘んじて受けますが、あまりに感情的なものは看過いたします。話にならないからです。こちらは場合によっては信濃町に抗議に行くくらいの気持ちで書いているのですから、安易なご批判はできれば遠慮していただきたく思います。

ただし、まじめなご意見はどんなものであれ大歓迎です。


ご清聴ありがとうございました。




   



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