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破滅的消費行動について 

朝日新聞の夕刊になかなか興味深い記事が載っていた。

中村うさぎの書いた記事である。
中村うさぎという人は、美容整形やホスト通いなどの体験を次々とエッセイに表し、最近では豊胸手術の前後のトップレス写真を女性週刊誌で発表したり、「自分の女としての価値を確かめるため」という動機でデリヘル嬢を実際にやってみたりと、何かと話題になっているエッセイストである。

「消費いざなう破滅願望」というタイトルで、破滅的な消費行動を繰り返す人間の心理についての考えを述べていた。

「破滅的な消費行動」というのは彼女の言葉を借りれば、「消費の対象が物であれ人であれ、『欲しい!』よいう身を切られるような渇望に突き動かされ、それさえ手に入れば幸福になれるかのような幻想を抱き、経済的あるいは社会的な破滅の予感にヒリヒリしながら、なけなしの金を擲つ(なげうつ)」ことである。

彼女の場合、そのなけなしの金を擲つ瞬間に何が起こるかと言うと、また彼女の言葉を引用すると、

「その瞬間、私の身体を貫くのは、破滅の恐怖と背中合わせの恍惚だ。そう、それは『破滅の恐怖』に裏打ちされているからこその、陶然たる至福の境地なのである。」

一過性のものとはいえ、「至福の境地」が訪れるのである。

彼女の論考をまとめれば、破滅的な消費行動というのは、今生きている自分に価値を感じ取れない人間が「価値ある私」を求めるが故の行為であって、破滅による死のさらに先にある「再生」を欲求しているのである、ということになる。

彼女の言葉でまとめれば、
消費による破滅は抽象的な「死と再生」の儀式である、
ということになる。

この結論は妥当であろうか?

私は、まず消費行為自体に存在する何かしらの快感についてもっと深く掘り下げる必要があるように思う。誰しもが知っていると思うけど、高価な物を購入するときのあの気持ちよさである。

購入して手に入れた物がもたらす何かではなく消費行為自体に存在する快感についての議論が必要である。

「死と再生」を求めているなどと言われると、なるほどそうかなぁと妙に納得してしまいますが、はっきり言って簡単に自己検証ができるような代物ではないと思う。私としては、とりあえずは一つの有力な仮説として受け入れるに留めたい。

さて、「消費行為自体に存在する快感」とは何か?

まずは大きく消費を二つに分けたい。

最低限の食料や衣料、電気代やガス代、子供の学校の給食費や教材費などの一般的にどうしても必要な消費と、

旅行、趣味的・自己研鑽的な書籍、やや値のはる食事、いい生地のスーツ、ホビー・カルチャー分野の様々な商品、車・オートバイ、パソコン関連機器などに対する消費とである。

ここでは、後者についてのみ考えたい。

話は戻りますが、「消費行為自体に存在する快感」とは何であるか?

実はこれこそが「死と再生」なのではないかと思う。
過剰な消費に身をを任せて破滅することが「死」なのではなく、ふつうの消費行為そのものがすでに「死」の様相を帯びていると言いたい。

なぜなら、
消費をすればその分お金が減る。
お金は何かに変わったわけである。

美味しい食べ物かもしれないし、高級時計かもしれないし、
飛行機や電車による旅客サービスに変わったかもしれない。

消費とは様々なものと交換できる「金銭」からその万能ともいえる自由度を一気に奪う行為である。

胃の中に入った天ぷらや刺身で新幹線に乗ることはもはや不可能だ。
消費によって、生き延びるために必要な何か別の物に使えたはずの金銭がその分減ることになるのである。

将来に向かって金銭的に全く何の不安もないという人はあまりいないであろうから、消費行為そのものには、その消費の程度に従って将来の自分を「経済的な死」に一歩近づける行為という側面がいくらかはあると思う。

では、その「死」という側面のある「消費」は「死」のさらに先にある「再生」を目指したものと言えるのか。

学習参考書を例にとれば、それは消費によって確実に一歩死に近づく自分を知りながらも、逆に一歩以上「生」に向かって引っ張ってくれることを信じてこそ行なう行為である。そこには「不確実性」がある。

「不確実性」が存する限り、そこには自分の身を谷底に投げ落とすかのような一種の冒険があり、賭けがある。何か物を買うと言う行為は、たとえそれが前々から欲しかったものであっても、実際に使ってみたら「買わなくても良かったかな」ということは、しょっちゅうあるものである。

これを極めて抽象的に言うならば、

「再生を信じて死に身を投ずる」ということになる。


結局何が言いたいかというと、
ごく通常の消費行為にも「死と再生」という側面があるということだ。

もっと分かりやすく言えば、
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という気持ちでみな消費をしているということである。

中村うさぎ氏が表現したような破滅的な消費行動は、再生を信じてのものとは思われない。普通の消費行動こそ「死と再生」の儀式であると言いたい。


では破滅的消費行動とは何か?



私の実体験から言えば、それは人間にどうしようもなく存する強力な肉体性が、同じく人間の人間たる所以であるところの精神性を半ば完全に凌駕してしまっている状態である。決して再生を期待してあるいは信じて取られた行為ではない。そこにあるのは「どうして私はこうなってしまうんだろう。」というひどい罪責感だけである。

存在しているはずの理性が、自我意識にとって見て見ぬふりをされている状態である。

消費行為を終えたあと激しく後悔するものの、また同じようなことを繰り返してしまう。それももっともらしい言い訳を自らの理性に差し出して…。 ただ、実際は、理性はその言い訳をちゃんと受け取ることができない。なぜなら、人間の肉体性は言い訳であれなんであれ理性と対面することを徹底的に避けるからである。つまり人間の肉体性は、理性の顔も見ずにいい訳なり何なりを差し出すふりをしただけで、ひたすら顔を反対に向けてその存在を忘れようとするのである。

そして、ひたすら堕ちて行く。


もしそこに積極的な意味があるとすれば、
人間が自分の弱さ・罪深さを悟るということであろう。

それはキリスト教的に言えば、救われる契機となる。


中村うさぎ氏の議論においては、死がなぜ再生に結びつくのかがあまり判然としない。

人は、死が再生に結びつくということを無意識のうちに知っているというのだろうか?

かりにそうだとしても、再生を目指して意識的に死を求めるということは現実的には起こり得ないと思われる。

こういったことは、いわば神の摂理のうちに起こるものと思われます。

なぜなら、人間が自分自身の所作によって救いに至るということは原理的に不自然な感じがするからです。

まとめて言えば、
めちゃくちゃをやって破滅に近づけば、なにか誰かが助けてくれるなんて淡い期待を持っているうちは、それは破滅でも何でもないのであって、当然救いもないわけである。


本当に破滅的な消費行動に走っている人というのは、そんなものではないと思います。


意地悪な見方かもしれませんが、
中村うさぎ氏は本当の破滅をよく分かっていないと結論付けたいと思います。

とはいえ、大変参考になる記事であり、
そのリアルな筆致と裏表のない清清しさには
心から敬服いたします。


かなり長い文章になってしまいましたが、
もし付き合ってくださった方がいましたら、
その人には抱きついてキスしたいような気分です。

ご清聴まことに有難うございました。




   



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コメント

中村うさぎさんの著作はあまり目にしたことはないのですが、
雑誌の連載などでその活動を拝見するたび、
「めちゃくちゃやる人だなぁ…」と思っていました。

が、変な話、そのめちゃくちゃさ加減は
「安心」して見ていられるんですよね。
借金を重ねても、整形しても、いずれもその行動は
「理性」によって「破滅」寸前のところで抑えられている気がするのです。

ものすごくうがった書き方をすれば、
破滅「的」な行動もいずれ文字に変えればお金に変わる…
ということが約束されている。
絶対このことを意識していないわけがない。

…ということを「死と再生」と表現されているのならしごく納得。

と同時に、あらかじめ「再生」が約束されている状態では
真の「破滅」とはなんぞや、
という部分を表現するのは難しいかもなぁ・・・と私も思います。


・・・すみません、初めてのコメントで
こんな長文を寄せてしまいまして^^;;

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