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北村透谷の博愛主義 


北村透谷の「最後の勝利者は誰ぞ」の一節。


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博愛は人生に於ける天国の光芒なり、人生の戦争に対する仲裁の密使なり、彼は美姫(びき)なり、この世の美くしさにあらず、天国の美くしさなり、死にも笑ひ、生にも笑ふ事を得る美姫なれども、相争ひ相傷くる者に遭ひては、万斛(ばんこく)の紅涙を惜しまざる者なり。

味方の為に泣かず、敵の為に笑はず、天地に敵といふ観念なく、味方といふ思想あらざるなり。基督が世に遣(や)れる政治家は即ち彼なり。

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青空文庫(著作権の消滅した作品を公開しているサイト)で見つけた言葉なんですが、クリスチャンでもあった彼らしい言葉です。

敵がいなくなれば、味方という観念も必要ありませんよね。透谷は明治元年生まれですが、現代でも通用する、というか現代人にこそ聞かせたい言葉です。


北村透谷といえば、「厭世詩家と女性」の冒頭の一文である、

「恋愛は人世の秘鑰(「ひやく」と読みます。鑰は鍵という意味。)なり、恋愛ありて後人世あり、恋愛を抽(ぬ)き去りたらむには人生何の色味かあらむ、然るに尤も多く人世を観じ、尤も多く人世の秘奥を究むるといふ詩人なる怪物の尤も多く恋愛に罪業を作るは、抑(そ)も如何なる理ぞ。」


がよく取り上げられ、恋愛至上主義を日本で最初に広めた人物と評されていますが、むしろ彼の博愛主義こそが第一に取り上げられるべきかとも思う。

さして長くもないので「最後の勝利者は誰ぞ」の全文を掲載しておきますね。

言葉はやや難しいですが、大体の雰囲気をぜひ味わってほしく思います。


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「最後の勝利者は誰ぞ」

 北村透谷

 人生は戦争の歴史なり。刀鎗銃剣は戦争にあらず。人生即ち是れ戦争。世を殺せし者必らずしも虚栄に傲(ほこ)る勝利者のみにはあらじ、力ある者は力なき者を殺し、権(けん)ある者は権なき者を殺し、智ある者は智なき者を殺し、業(げふ)ある者は業なき者を殺し、世は陰晴常ならず、殺戮(さつりく)の奇巧なるものに至つては、晴天白日の下(もと)に巨万の民を殺しつゝあるなり。銃鳴り剣閃めき、戦血地を染め、腥風(せいふう)草樹を槁(か)らすの時に、戦争の現状を見る、然(しか)れども肉眼の達せざるところ、常識の及ばざるところに、閃々たる剣火は絶ゆる時なきなり。

 人の性は不調子なり、人の命は不規律なり、争ふ事を好むは猿猴よりも多く、満足する事能はざるは空の鳥に学ばざる可からざるが如し、是非曲直を論ずれども、我利の為に立論するの外を知らず、正邪真偽を説けども、遂に成覚の見を養ひし事なし、知らず、人間の運命遂にいかならむ。再び猿猴に返らんとするか。

 われ庭鳥の食を争ふを見る、而して争ふ時には常に少者の逃走するを見る、少者は母鶏の尤も愛する者なり、而して慾の即時に於ては、尤も愛する者も尤も悪(にく)む者となり、最後、尤も劣れるもの、尤も敗るゝ者となる。これ天則か。天則果して斯(かく)の如く偏曲なる可きか。請ふ、行(ゆ)いて生活の敗者に問へ、新堀あたりの九尺二間には、迂濶なる哲学者に勝れる説明を為すもの多かるべし。

 冷淡なる社界論者は言ふ、勝敗は即ち社界分業の結果なり、彼等の敗るゝは敗るべきの理ありて敗れ、他の勝者の勝つは勝つべきの理ありて勝つなり、怠慢、失錯、魯鈍、無策等は敗滅の基なり、勤勉、力行、智策兼備なるは栄達の始めなりと。

 われは信ぜず、天地の経綸はひとり社界経済の手にあるを。見ずや、栄達の中(うち)にも苦悩あるを、敗滅の中にも希望あるを。栄達必らずしも勝つにあらず、敗滅必らずしも敗るゝにあらず、王侯の第宅必らずしも福神を宿すところなるにあらず、茅舎の中、寒燈の下、至大なる清栄を感謝するものもあるなり。今日のみ凡ての問題の立論点ならば知らず、昨日を知り、又た明日を知るを得ば、勝敗が今日の貧富貴賤を以て断ず可からざる事は明白ならむ。

 社界経済の外に吾人を経綸する者あり、吾人は分業の結果を以て甘心する事能はざるの性を有す、吾人は遂に希望を以て生命とするの外あらざるなり。今日は吾人の永久にあらず。今日は吾人の明日にあらず、言(ことば)を換へて解けば、吾人は今日の為に生きず、明日の為に生くるなり、明日は即ち永遠の始めにして、明日といへる希望は即ち永遠の希望なり。希望は吾人に囁きて曰ふ、世は如何に不調子なりとも、世は如何に不公平、不平等なりとも、世は如何に戦争の娑婆なりとも、別に一貫せるコンシステント(調実)なる者あり。人生のいかに紛糾せるにも拘らず、金星は飛んで地球の上に堕ちざるなり、彗星は駆けつて太陽の光りを争はざるなり。大宇宙に純一なるコンシステンシイあるは、流星の時に地上に乱堕するを以て疑ふに足らざるなり。江海の水溢れて天に注ぐ事なく、泰山の土長く地上に住(とゞ)まることを知らば、地上にもまたコンシステンシイの争ふ可からざる者あるを悟らざらめや。何をか調実の物と言ふ、マホメット説けり、釈氏説けり、真如と呼び、真理と称へ、東西の哲学者が説明を試みて止ざる者即ち是なり。而して吾人は之を基督といふ。基督にありて吾人は調実を求め、基督にありて吾人は宇宙の経綸を知る。ナザレのイヱスは真理を説きたるにあらず、真理にして真理を発顕したる者なり。

 基督の経綸には社界分業の法則あらざるなり。社界経済は人間の労苦より起りて、弥縫の策に過ぎず、彼と此とを或仮説の法則の下に、定限ある時間の間撞突なからしむるのみ。経済上の問題として世を経営するは寸時の方策のみ。基督の経綸は永遠なり。未来あらず、現在あらず、過去あらざるなり。凡ての未来、凡ての現在、凡ての過去は彼に於て一時のみ。もし天地間、調実(コンシステント)なるものひとり彼ありとせば、心を虚(むなし)うして彼の経綸策を講ずる者、豈(あに)智ならずや。

 吾人は聞けり、基督は愛なりと。
 吾人は聞けり、基督は今も生けりと。
 吾人は聞けり、基督は凡ての人類と共にありと。

 凡ての人類と共にあり、限りなきの生命を以て限りなきの愛を有する者、基督なりとせば、天地の事、豈一の愛を以て経綸すべしとなさゞらんや。紛糾せる人生もし吾人をも紛糾の中に埋了し去らば、吾人も亦た※血(せんけつ)[※月 + 「亶」の「回」に代えて「面」から一、二画目をとったもの ]を被(かう)ぶるの運を甘んずべし、然れども希望の影吾人を離れざる間は、理想の鈴胸の中に鳴ることの止まざる間は、吾人は基督の経綸を待つに楽しきなり。

 博愛は人生に於ける天国の光芒なり、人生の戦争に対する仲裁の密使なり、彼は美姫(びき)なり、この世の美くしさにあらず、天国の美くしさなり、死にも笑ひ、生にも笑ふ事を得る美姫なれども、相争ひ相傷くる者に遭ひては、万斛(ばんこく)の紅涙を惜しまざる者なり。味方の為に泣かず、敵の為に笑はず、天地に敵といふ観念なく、味方といふ思想あらざるなり。基督が世に遣(や)れる政治家は即ち彼なり。

 世は相戦ふ、人は相争ふ、戦ふに尽くる期あるか。争ふに終る時あるか。殺す者は殺さるゝ者となり、殺さるゝ者は再(ま)た殺す者となる。勝と敗と誰れか之を決する。シイザルの勝利、拿翁(ナポレオン)の勝利、指を屈すれば幾十年に過ぎず、これも亦た蝴蝶の夢か。誰れか最後の勝利者たる、誰れか永久の勝利者たる。

 不調実(インコンシステンシイ)にして戦争の泉源なりとせば、調実は平和の始めなり。争はず戦はざる事を得るはひとり調実なりとせば、終(つひ)に勝たず終に敗れざる者、ひとり調実のみならむ。終に勝たず終に敗れざる者は、真に勝つものにあらざるを得んや。故に曰く、最後の勝利者は調実なりと。調実、言を換ゆれば真理、再言すれば基督。

 来れ、共に基督の旗に簇(あつ)まらむ。われら最後の勝利者に従ひ、以てわれらの紛糾せる戦争の舞台を撤去せむ。平和は、われらが基督にありて領有する最後の武器なり。


(明治二十五年五月)


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