下記↓の「名言・格言・ことわざの世界」は、当ブログ運営者が別途保有している総合名言サイトです。まだ発展途上ですがよかったら覗いてみてください。

「理想の女」 豊島与志雄 作 

青空文庫」に、私としては興味深い小説が掲載されたので、ここに転載する。著作権は切れているので問題はありません。今のところは。


☆☆☆

理想の女 (その1)          豊島与志雄


 私は遂に秀子を殴りつけた。自然の勢で仕方がなかったのだ。
 私は晩食の時に少し酒を飲んだ。私達は安らかな気持ちで話をした。食後に私はいい気持ちになって――然し酔ってはいなかった――室の中に寝転んだ。電灯の光りを見ていると、身体が非常にだるく感じられた。秀子は室の隅の小さな布団に、みさ子を寝かしつけていた。その方へ向いて私は、「おい枕を取ってくれ、」と云った。
「しッ! 赤ん坊が寝ないじゃありませんか。」と秀子は答えた。
 彼女の声の方が私のよりずっと高かった。眠りかかった子供が眼を覚したとすれば、それは寧ろ彼女の声のせいに違いなかった。然し幸にも子供は眼を覚さなかった。私は我慢して待っていた。所が秀子はいつまでも起き上ろうとしなかった。私は雑誌を五六頁読んだ。それから秀子の方を見ると、彼女は子供に乳を含ましたまま、いつしか居眠ってるらしかった。
 私は立ち上って、押入から枕を取り出した。そして押入の襖をしめる時、注意した筈だったが、つい力が余って大きな音がした。秀子はむっくり半身を起した。そして、「静かにして下さいよ、」と云った。
 その言葉の調子が如何にも冷かに憎々しかった。私は癪に障った。それで、また例の通りだとは思いながらも、其処にどたりと枕を投(ほう)り出して、わざと大きな音がするように寝転んでやった。
「赤ん坊が眼を覚すじゃありませんか。」と秀子は云った。「眼が覚めたら寝かして下さいますか。」
「ではなぜ枕を取ってくれないんだい。」と私は答えた。
「それ位御自分でなさるが当り前よ、私ばかりを使わなくったって……。」
「じゃあお前は、いつも使われてる気で僕の用をしてるのか。心からこうしてあげようという気はないのか。」
「では御自分はどうなの。子供で手がふさがってるからという思いやりは、少しもないんですか。」
 そういう水掛論が喧嘩の初まりだった。然しそれは具体的な事実を離れて、お互の態度に及ぶ抽象的な問題になったために、どちらも云いつのるだけではてしがなかった。そして、口論の最中に俄に沈黙が落ちて来た。苛ら立った憤りが、じりじりと胸の奥に喰い込んでいった。……とは云え、いつもはそれきりで済むのであったが、不幸にも、丁度その時速達郵便が玄関に投げ込まれた。「速達!」という配達夫の声に、「はい。」と秀子は答えたが、立っては行かなかった。その様子と、「はい。」という返事の落付いた調子とに、私は赫となった。
「取っといで!」と私は怒鳴った。
 秀子は黙っていた。
「取っといでったら!」と私はまた怒鳴った。
 秀子は眉根をぴくりと震わしたまま、じっとしていた。私はじっとして居れなかった。枕を取るが早いか、それを秀子めがけて投げつけた。枕は的を外れて、縁側の障子に当り、障子の中にはまっている硝子を一枚壊した。その物音にみさ子が泣き出した。秀子はそれを抱き取った。私は眼をつぶって仰向けに寝転んだ。
 硝子の壊れた音を聞きつけて、台所からはるがやって来た。秀子ははるに硝子の破片を掃除さした。そして、はるが向うに立ってゆき、子供が眠ってしまった後、秀子は私の方へ坐り直して云った。
「あんな野蛮なことをなすって、もしみさ子が怪我でもしたらどうします!」
 私は飛び起きて、歯をくいしばった。掃除がすみ子供が眠ってしまってから、冷かに真剣に談判を初めたのだ。彼女はまた云った。
「卑劣な! 自分に恥じなさるがいい。」
 その言葉を聞いて私は我を忘れた。「自分に恥じるがいい。」とは、私が彼女を責むる時によく用いた言葉である。その言葉が如何に苛ら立った心を刺戟するかを、私は初めて知った。私は身体を震わしながら、右の拳を振り上げた、そして叫んだ。
「何だ、も一度云ってみろ!」
「ええ幾度でも云います。」と彼女は甲走った声で答えた。「卑劣です。野蛮です。私を打つつもりなら、打ってごらんなさい!」
 私は振り上げた右の拳を打ち下し加減に、彼女の肩を押して突き倒そうとした。彼女はその手にしがみついて来た。もう仕方がなかった。取られた手で彼女を其処に引きずり倒し、左手で彼女の頬に一つ強打を喰わし、立ち上りさま、彼女の腰のあたりを蹴飛した。彼女はがくりと畳の上に倒れ伏したが、その執拗な手先はなお私の着物の裾に取りついてきた。私は彼女が理性を失いかけてるのを見た。それに反して、私の方には非常に明晰な意識が働いてるのを見た。私は堪らなくなった。そして彼女の狂暴な手を払いのけるや否や、ぷいと外に飛び出した。子供の泣き出す声が後ろから聞えていた。
 実に嫌な――というより寧ろ醜い心地だった。彼女を殴りつけてる瞬間の自分の姿が、如何に呪わしい様子であったかを私は感じた。「随分大きな口ね、」と彼女からよく云われていたその口が、殊に大きく裂け上り、鼻が頑丈に居据り、両眼が真中に寄っていたに違いない。握りしめた拳は震え、呼吸は気味悪いほど深く抑え止められていた。そして、そういう私が飛びかかっていって殴り倒したのは、「彼女」をでなくて「彼女の肉体」をであった。柔かな円っこい弾力性のある、海綿を水母(くらげ)に包んだような而も生温い香りのする、「彼女の肉体」をであった。その肉体の背後には、執拗な「彼女」がつっ立って、あくまでも私に反抗しようとしていた。私の手先にしがみつき、私の着物の裾に取りついて、瞋恚の爪を私の胸に立てようとしていたのだ。私は逃げるより外に仕方がなかった。逃げる――と云えば、私は初めから逃げ出していたのだ。切瑞つまった場合になると、暴力が最後の避難所となることもある。私は拳を振り上げた時、「も一度云ってみろ!」と叫んだ時、彼女が折れて出ることをどんなにか待っていたろう! 恐れ入ったという色を一寸見せてさえくれたら……もう止して下さいという様子を一寸見せてさえくれたら……振り上げた拳の下から一寸身を引いてさえくれたら……私の気はそれで済むのであった。然し彼女はそうしなかった。

☆☆☆


理想の女 (その2)を読む。

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://orangekick.blog19.fc2.com/tb.php/923-8a1c4f99