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「理想の女」 豊島与志雄 作  その2 

前回(その1)に引き続き「理想の女」を掲載します。


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理想の女 (その2)          豊島与志雄

あべこべに私の気勢を上から押っ被さって折り拉ごうとした。それでも私は、拳をすぐに打ち下さないで、少し手を引いて、ただ彼女を押し倒そうとしたのである。然し彼女はそんなことに頓着しなかった。真正面から私に向って突進してきた。凡ての期待は空しくなった。私は逃げ途を失った。もはや一方の血路を開くより外に仕方がなかった。私は殴りつけた。蹴飛した。而も、私が其処に打倒したものは「彼女の肉体」であって、「彼女」はあくまでもいきり立って私に飛びついて来たではないか!
 そういう彼女を、一歩も譲ることを知らない彼女の心を、是非とも挫いておく必要があると私は考えた。そうでなければ、まだこれから幾度も同じことが起りそうだし、その度毎に私は困難な立場に陥りそうだったのである。些細なことから私達は口論をすることがよくあった。二三日後まで反抗的な沈黙を守るほど激しい口論も、何度かくり返されていた。所が此度そういうことが起ったら、もう掴み合いに終るの外はないように思われた。幾度も抑えに抑えられた暴力が、既に飛び出した後だからである。而もそういう暴力の結果はどうであるか? 責任が私一人にかかってくるのみである。彼女は「女である」という便利な楯を持っている。一歩も譲らないで私につっかかって来たこと、不条理に苛ら立ってきたこと、そういう微細な――実は最も重大な――問題は、「殴られた」という事実の背後に影を潜めてしまう。そして「殴った」という責任が全部私の上にのしかかってくる。喧嘩の瞬間には、男も女も対等に――否多くは女の方がより攻勢的に――相対抗するものであるということを是認しても、殴る殴られるという結果の差は、溯って男を非難しがちである。動機の如何に拘らず、強い方が不当だと常に結論されがちである。私はそういう不条理な損害を受けたくない、そういう危い境地へ踏み込みたくない。それには、彼女に折れ屈むことを教えて置かなければいけない。彼女の心を挫いて置かなければいけない。
 憤激の余り私は右のように考えた。然しこの決心は如何に根の浅いものであったか! 私は頭で到達した帰結に満足して、それを胸の奥に移し植えるだけの労を取らなかったのである。
 二日間、私達は互に口を利かなかった。その間私は、一方では秀子に対する憤りを無理に自ら煽り立てながら、一方では秀子が我を折ってくるのを待ちあぐんでいた。
 二日目の夕方――その日は冷たい雨が午後から降り出していた――私は、まだ電灯もつかないのに、秀子が縁側の雨戸を閉めているのを見た。室の中が真暗になりそうだった。
「もう少し開けとおき!」と私は尖り声で云った。
「みさ子が風邪をひくじゃありませんか。暗くても温い方がよござんす。」と彼女は答えた。
 私が枕を投って壊した障子の硝子は、まだそのままになっていた。私への見せしめか知らないが、彼女は新たに硝子屋へ頼むこともせず、または紙をはって一時の間に合わせることもしなかった。ぽかりと口を開いてる四角な穴からは、冷かな空気が流れ込んでくるようだった。
「硝子をはめさしたらいいじゃないか。」と私は云ってやった。
 秀子は何とも答えないで、雨戸を閉め切ってしまった。室の真暗な中に、私は一人置きざりにせられたような気がした。その時電気が来た、俄に明るくなった。私達は互の視線を避けた。すると――ああ、女のでたらめな口先よ!――秀子は急にこう云った。
「硝子をはめさしても宜しいんですか。」
「はめないでどうするんだ!」と私は答えた。
「じゃあなぜ早く仰言らないの。」
「お前の方が黙ってるじゃないか。」
 何だか馬鹿々々しかった。馬鹿々々しい気持ちが動いてきた。そして、それが喧嘩の終りだった。私達はまた口を利き出した。万事が平素の状態に返った。その上、この余りに妥協的な不自然な和解は、感覚の陶酔によっても助けられたのである。
 斯くて私の決心は、いつのまにか泡沫のように消え去ってしまった。消え去るのが当然だった。私の内心は寧ろそれを望んでいたのだから。私にとっては、彼女の性質を矯正したいという欲求よりも、彼女を所有したいという欲求の方が、より直接でありより強いのであった。そして彼女を殴ったことによって、私は終局彼女に武器を一つ多く与えたのみだった。
 秀子は私に右の頬を殴られてから、その奥歯が痛んで止まなかった。――彼女は美事な歯並を持っていた。上下揃った細い真白な歯並で、而も下歯が上歯の奥にはいり込んで合さるということがなかった。上歯の先端と下歯の先端とがいつもかち合っていた。そのために、物を食べる時奥歯を噛み合せるのに、口元へ可愛らしい皺が寄った。またそのために、平素唇が薄く細そりして見え、その唇の仇気ない子供らしい微笑の隙間から、上下揃った美事な歯並が覗き出した。なおその上、右上の糸切歯に金が被さっていた。普通は、糸切歯が虫に腐蝕されることは極めて稀であるが、彼女は真先に糸切歯がやられたのである。彼女にとってはそれが偶然の天恵だった。美わしい歯並の奥からぴかりと黄金色に光る糸切歯は、彼女の微笑みに云い知れぬ魅力を与えていたのである。それは兎に角として、この糸切歯から一枚飛んだ奥の下歯が、以前から虫に蝕されていた。時々痛み出すこともあった。然しいつもすぐによくなった。所が此度は、三四日たっても痛みが止まなかった。「あの晩からよ、」と彼女は云った。私は冷りとした。そして無理に歯医者へ通わした。
 歯医者の言葉に依れば、その虫歯は可なりひどくなってるので、セメンをつめ金を被せるのには、二週間余りかかるとのことだった。その間彼女は、初めの一週間は毎日、後の一週間余は一日置きに、文字通り神経をすりへらす手術を受けなければならなかった。神経質な彼女はそれを非常に苦にした。出かける時には、つまらない用事に愚図々々こだわって、なるべく時間を後らそうとした。帰ってくると、眉をしかめながら碌々口も利かないで、数時間じっとしてることさえあった。それから非常に上機嫌になったり不機嫌になったりした。それがまた一々私に反映した。
 九時頃に起き上る。もう朝食の用意は出来ている。私は急いで朝の身仕舞をする。然しそれはごく簡単だ。歯を磨き、顔を洗い、髭を剃り、クリームを顔と頸と手先との皮膚にぬり、髪に櫛を入れる。それだけだ。然し秀子の身仕舞は中々済まない。第一に髪を結わなければならない。(感心に彼女は自分で髪を束ねて、決して人手を借りなかった。)次には長い長い御化粧が初まる。歯医者へ通うので殊に念が入るのだ。細いしなやかな指先を、顔や頸筋へ蛇のようにのたくらせながら、何時までも鏡台の前から立とうとしない。そのうちにみさ子が泣き出す。はるは座敷の掃除やなんかでまだ手がふさがっている。私は危っかしい手付でみさ子を抱いて、家の中をよいよい歩かなければならない。漸く秀子の身仕舞がすむ。彼女は鏡台の前に肌ぬぎになったまま、啜り泣いてる子供に乳房を含ませる。その間私はぼんやりして、縁側から狭い庭でも眺めるか、または寝床の中でざっと眼を通した新聞を、も一度読み直すかするより外はない。それから漸く食事になる。食事が済むと十一時に間もない。秀子は急いで歯医者へ出かける。午後は患者が込むので午前に出かけるのだ。然し随分帰りが後れることもある。みさ子が乳をほしがって泣き出す。私の危っかしい「よいよい」がまた初まる。子供は笑ってるかと思うと泣き、泣いてるかと思うと笑っている。その可愛いい口に唇づけすると、私の唇をちゅっちゅっと吸う。たまらなく可愛くなる。それでも、秀子が帰ってくると、私はすぐに子供を奪われてしまう。「おうよしよし。」と云って彼女は子供に頬ずりをする。私は黙ってそれを傍観するのだ。乳母を雇わないで自分の乳で子供を育てる彼女の気持ちが、私にも分るような気がする。それが私を苦々(にがにが)しい気分になす。そのうちにまた昼食だ。朝が遅いので、私達は昼に麺麭と牛乳とを取っている。所が秀子は、歯が痛いと云って牛乳だけを飲み、而も乳のためと云って二合近くも飲み、そのまま右の頬を掌で押えて、黙り込んでしまう。私は一人で淋しく麺麭をかじる。彼女は子供をはるに預けて、長く坐り込んで動こうともしない。それから俄に、上機嫌か不機嫌かがやってくるのだ。上機嫌な時には種々なことを饒舌る。歯医者の家で逢ったどこそこの奥さんが、こんなことを云ったとか、芸者がどんな着物を着て歯の療治に来ていたとか、今度みさ子を連れて伯父さんの家へ行こうとか、子供があっては芝居にも行けない――それも別に不平の調子でではなく至って殊勝な調子で――などと、いろんなことを云い出す。いい加減調子を合してるうちに、うつかり信用出来ないぞという気が私のうちに起ってくる。なぜか私は知らない。今に背負投げを喰うぞという気持が、暗々裡に私を警戒させるのだ。そして実際、その背負投げを喰うことも屡々ある。私が彼女の上機嫌に引込まれて、頑是ない子供にからかったり、彼女の乳房を弄んでる子供をいじめたりすると、「子供は玩具ではありません、」としまいに彼女は云い出す。彼女にとっては、私よりも子供の方が大事なのだ。子供は神聖な宝で、猥りに犯してはいけないものなのだ。……然しなおいけないのは、彼女が不機嫌になる時である。

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