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「理想の女」 豊島与志雄 作  その7 

前回(その6)に引き続き「理想の女」を掲載します。


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理想の女 (その7)          豊島与志雄

初めからはるに頼むつもりなら、私はわざわざ秀子に頼みはしない。夜の珈琲一杯が私の気分に如何なる意味を持ってるかは、彼女も知ってる筈だった。私は彼女の全部で私に仕えて貰いたかった。私の方でも、私の全部で彼女に臨んでいた。然し彼女は私の方へ背中を向けて、子供の方へ向いていたのである。私はそれが不満だった。私に対する彼女の愛情が疑われだした。
 彼女は私に対して、殆んど愛情の直接な表現を見せなかった。愛情を見せる場合には、多くは子供を通じてであった。「あなた」というやさしい二人称は、「お父さん」という距てある三人称に変えられていた。私に送るにこやかな眼付は、子供の笑顔に促された余波であった。私の意を迎える時には、子供が私の前に差出され、彼女の眼は先ずその子供の方を顧みていた。私達の生活は自由恋愛を貫き通した結果だっただけに、かかる変化が私には殊に鋭く感ぜられた。
 然し私は、恋愛生活をいつまでも続けたいのではなかった。恋愛は常住の性慾であると思っていた私は、子供を設けた後までも恋愛に耽るつもりではなかった。けれども、私達の生活は何処までも愛の生活でなければならないと、私は信じていた。そして、愛は常住の心の抱擁であると思っていた。もし彼女の心が私の心より外の物に向けられる時があるとすれば、私達の愛はそれだけ不完全になるわけだった。所が彼女の心は、私の心から殆んど常に外らされて、子供の方をばかり向いていたではないか! 而もそれは私達の子供である。私の可愛いい子供、また私にとっては、彼女の一部分たる子供!
 私はこの気持ちを、子供に対する嫉妬だと名付けていいかどうかを知らない。然しそれより外に云いようはないような気がする。秀子に対する憤りを、子供にまで蔽い被せねば止まない私の心は、如何に醜いもので毒されていたことであるか! そして子供の唇を吸い、子供の頬をなめる私を、じっと見ている秀子の皮肉な眼付の前に、私は幾度慄然としたことであろう! それでも私はなお、子供の可愛いい唇や頬に慕い寄っていった。すると秀子は荒々しく、私から子供を奪い取ってしまった。私は頭を垂れて、秀子と子供との一体の前に、意気地なく憐れみを乞うた。然しやがてその憤懣が昂じると、私は一種の敵意を以て秀子にぶつかっていった。子供にも当り散らした。秀子は私を頭から圧迫しようとかかった。醜い諍いが初った。そして結果は、私が秀子を殴り倒そうと、また子供を其処に放り出そうと、常に私の敗北にきまっていた。なぜなら、私は家庭内に於て自分の地位を失っていたから。
 私は恐らく、子供が出来た新たな生活に進むに当って、外の態度を用意して置かなければならなかったのかも知れない。子供の出生は小事であって、其後が大事であるということを、考えて置かなければならなかったのかも知れない。
 二階の書斎にじっとしていると、家の中はひっそりとしている。みさ子は取っているのであろう。秀子は寝そべっているのであろう。時々台所の方でことこと音がするのは、はるが食事の用意をしているものとみえる。ぼんやりしていると、凡てが、生活が、自分自身が、佗びしく頼りなく思われてくる。そして、そっと足音を偸んで、憚るように二階から下りてゆくと、秀子が針仕事をしている。私は一寸喫驚する。向うにみさ子が眠っている。私は其処に寄ってゆく。一寸指先で頬をつつくと、眠りながら微笑む。「お止しなさい、」と秀子が云う。私はなお執拗になる。口を押しつけて頬や唇を吸う。子供は眼を覚す。しまいに泣き出す。私はもう嫌になる。「おい、お抱きよ、」と秀子へ云う。「知るものですか、勝手に起しといて、」と彼女は答える。私の方も意地になる。彼女の方も意地になる。子供はなお泣き立てる。はるが台所から出て来て、子供を抱く。私は不機嫌になる。いつまでも黙っている。やがて秀子ははるに云う、「そっと寝かして、用をしておしまい。むずかったらお父様が守りをして下さるだろうから。」私はそのあてつけに腹を立てる。子供は暫くおとなしく寝ている。やがてむずかり出す。遂には泣き出す。「子供を守りするのは女の役目だ、」と私は秀子へ怒鳴りつける。「子供をいじめるのは男の役目ですか、」と彼女は反問する。口論が初まる。私ははるを呼んで、子供を抱けと云いつける。「いいから用を済しておいで、」と秀子は云う。はるは秀子の方に従う。子供は泣いたまま放って置かれる。私は逃げ出すより外に仕方がない。「羽織を出しとくれ、出かけるから、」と秀子へ云う。「勝手にお出しなさるがいいわ、」と彼女は答える。私は箪笥の抽出から、むちゃくちゃに着物を引きずり出す。そして羽織だけを取代える。秀子は漸く立って来て子供を抱く。そして着物を引き散らしてる私を冷然と見下す。私は赫となる。自分自身が醜く、彼女が憎くなる。彼女がもし子供を抱いていなければ、また殴りつけるかも知れないと自分自身を恐れる。私は出かけようとする。「着物をどうするんです?」と彼女は私を追求する。「勝手に出せというから出したんだ、」と私は怒鳴り返す。冷やかな沈黙が落ちてくる。今にも破裂しそうな反感が募ってくる。危い! 私は外へ飛び出す。
 斯くて私の彷徨は初まったのである。私は不在なことが多くなった。そして少くとも初めのうちは、万事がうまくいった。
 私はこんな風に考えた。私達が何かにつけて衝突し合うのは、いつも鼻と鼻とをつき合してるからではないかしら。余りにも近くくっつき過ぎてるからではないかしら。会社員みたいな生活が、神経の鋭敏な現代人には最も適してるのではないかしら。良人は朝から会社へ出かけて、必要な糧を稼いでき、妻は家を守って子供を育ててゆく。夕方良人が家に帰ると、一日見なかった妻の笑顔と子供の声と、晩酌の食膳とが、綺麗に整って待ち受けている。食事が済むと、良人は昼間の疲れと食慾の満足とに、もはや眠ることだけしか求めない。妻は子供を寝かしつけ、やがて自分も寝てしまう。そして一日が終るのだ。二人の間には何等衝突すべき材料がない。良人は後顧の患いなくして、自由に痩腕を世に揮うことが出来、妻は生計の煩いなくして、自由に驢馬の足を家庭内に伸すことが出来るのだ。……そして、良人は食を与え妻は肉体を供し、子供――彼等の惨めな後継者――が、年と共に殖えてゆく。
 私は胸糞が悪くならざるを得なかった。それほど私のうちには遊惰な心が蟠っていたのだ。民衆の中堅たる最も健全勤勉な人々を、右のように漫画視して考えるほど、私のうちに頽廃的な気分が濃くなっているのであった。そしてこれは皆、家庭というものから根こぎにされた結果であった。
 夜遅く家に帰る時、私は牢屋へ戻る罪人のような心地がした。家の中には、秀子の息吹きが、その重々しい蛸の木が、頑として根を張ってるように思われた。私はおずおずと、寄せられてる玄関の戸を開き、それに自分で締りをした。家の者はみな寝ていた。私は子供の眼を覚すまいと抜足して、寝室へ忍び込み、冷たい蒲団の中にもぐり込んだ。秀子は大抵眠っていた。そしてごく稀には、薄日を開いて、而も底光りのする黒い眼で、私の方をじっと見た。彼女の口元には硬ばった微笑が湛えられていた。そしてその真白な歯並の奥から覗く糸切歯の金の光りは、私の心を魅してしまった。私は官能の奴隷となって、感覚の陶酔を彼女と自分とに与えた。而もそれは、平素の私と彼女との精神状態に対して、如何に不自然なものであったか! 翌朝になって私達は、互に白けきった気持ちで、眼を外らすことが多かった。斯くて私達はいつのまにか、真の夫婦関係から、愛し合う男女関係からは尚更、遠ざかっていった。
 それも結局私には気楽だった。然し、自分の性慾を金の力によって滿すような機会を、而も自分の前に差出された機会をも、私は決して掴まなかった。少くとも妻がある間は! と私は自ら誓っていた。所が、それが却って悪かったのだ。何という不条理なことであろう!
 私が外に出かけようとすると、何処へ行くのかと秀子は尋ねだした。私が夜遅く帰ってくると、翌朝になって、昨日は何処へ行ったのかと彼女は尋ねだした。私は気にもかけなかった。気持ちの和らいでる時には、和らいでいない時にも大抵は、何処から何処へ行ったと明かに答えてやった。少しく曖昧な点があると彼女はなお追求してきた。私は更に詳しく答えてやった。余りうるさくなると、こう答えた。
「でたらめに歩き廻ったことを、そう詳しく覚えてるものか。」
 彼女は口を噤んだ。
 不機嫌な時には、私はこう答えた。
「煩い。何処へ行こうと僕の勝手だ。」
「では私も勝手な真似をしますよ、その時になって愚図々々仰言らないようになさい。」
 と彼女は答え返した。
 心が陰鬱に沈み込んで、気分だけが妙に緊張してる時に、私は暫く黙ってた後、こう答えた。
「放っといてくれ! 僕は少し一人で考えたいんだ。」
 すると彼女は、俄に顔を引緊め、眼を横目勝ちに見据えて、室の片隅を睥んだ。いつまでもじっとしていた。私は少し変な気がした。
「何を考えてるんだ。」と私は云った。
「何でもよござんす。私にも考えがあります。」
 彼女はやはり身動きもしなかったが、やがてふいと立って行った。そして向うの室で、女中の手からみさ子を抱き取ると、やけにゆすぶりながら室の中を歩き廻ってるのが、如何にも私への当てつけらしかった。
 私はそういう彼女の様子が、どう考えても腑に落ちなかった。何か新たな心理が彼女のうちに動いてることは分ったが、それが何であるかは分らなかった。そして結局、彼女の心に芽したものが何であろうと、私の方が一歩優勢になったことだけは確かだった。私はこの意外な結果に満足した。そして更に決定的な勝利を得んがために、殊更沈思を装い、出先を曖昧にしながら、一層頻繁に市内を彷徨し初めた。そういう方法によって、彼女の気勢を挫き、家庭内に自分の権力をうち立て得たら、凡てがよくなるだろう、彼女と私との間もよくなるだろう、と私は考えていた。私は球突場へ通った。碁や将棋を初めた。活動も見て歩いた。時には夜遅くまで酒を飲んだ。妓を呼ぶこともあった。飽きると友人の家に寝転んで、無駄話に耽った。ちいさなハナをひいたり、トランプの空遊びをした。そして、遊惰というものは妙なものである。初めはいつも陰鬱に曇っていた私の心が、非常に華かになったり、非常に陰惨になったりした。浮々した気持が何処までも私を運んでゆくかと思うと、急に真暗な穴の底へ陥ったような心地になった。そういうどん底の気分の時には、私はよく長谷川を訪問した。長谷川は近頃文壇に名を出した新進作家で、妹の道子も将来女流作家となる筈――本人の心では――であった。家の中の空気が何処となく爽かでまた落付いていた。彼等二人の話を聞いていると、私の心へも清澄な光りが射してきた。自分も勉強したような気が起ってきた。そしてすぐに家へ帰った。然し、家の閾を跨ぐと、私の心はまた陰鬱になるのであった。
 或る日――その午后に私はまた秀子と喧嘩をした。初めは何でもないことだったが、いつもとはだいぶ調子が異っていた。みさ子が少し風邪の気味だった。熱を測ると七度一分あった。「大丈夫でしょうか、お医者に診せないで、」と秀子は云った。「七度二分までは発熱と云えないそうじゃないか、」と私は答えた。暫くすると、「大丈夫でしょうか、」と秀子はまた云った。「大丈夫だ、」と私は事もなげに答えた。そういう問答の後に、私は縁側の障子を開け放って、南を一杯受けた日向に寝転んだ。彼女は私の不注意を責めた。私はうっかり一二言答え返した。彼女はすぐにつっ込んできた、「子供の風邪がひどくなったら、あなたが責任を負って下さるのね!」私は一寸あわてた。「でたらめなことを云うな、」と投げやりの調子で答えた。彼女は私の顔をじっと見た。「あなたは、この頃ちっとも子供を可愛がりなさらないのね、」と彼女は云った。云われてみると多少は当っていた。子供の側にくっついてることが、私には次第に少くなっていたのだ。私は話の方向を変えるために、別のことを云った。「お前は、ただ子供をだけ愛してる。それが本当の愛かも知れないよ。然し僕は……子供を愛する時は、お前をも愛してる時なんだ。」云い方が悪かったのだ。彼女はすぐに結論して私に迫った。「では、あなたはこの頃私を愛して下さらないのね。」彼女の云う所は、いつになく論理正しく鋭利だった。私はたじたじとなった。癪だった。「お前はどうだ、」と反問してやった。「私のことを云ってるのではありません、」と彼女は私を撃退した。「お前は子供だけ育てれば、それでいいと思ってるんだろう、」と私は云った。「あなたは私に子供だけを与えておけば、それでいいと思っていらっしゃるんでしょう、」と彼女は云った。議論は慢罵に変っていった。私も彼女も、後に退こうとしなかった。彼女は云った、「あなたは子供を目の敵にしてるのね。」私は云った、「お前は子供を武器にして僕に対抗してるんだ。」彼女は云った、「あなたは私達と一緒に暮したくないんでしょう!」私は云った、「お前は僕を家から追い出したいんだろう!」しまいには口を噤むより外に仕方がなかった。然し、いつもの喧嘩なら、互に殴り合わんばかりに激昂し熱してくるのだったが、この時ばかりは、反感や憤りが内へ内へと沈み込んで、二人の間の空気は、氷のように冷たくなった。表面だけが冷然と落付き払って、心の底が暗い影に脅かされた。私達は長い間、石のように固くなってじっと向い合っていた。その或る日、私は外に出ないで、終日書斎にとじ籠っていた。訳の分らない懸念が、私を家の中に引止めたのであった。私はしきりに階下の物音が気になった。然し家の中は静かだった。何事も起らなかった。夕食は沈黙の間に終った。私はまた二階に上った。しいて書物を読んだ。気を落付けるために、長谷川へ手紙――取り留めもない感想――を書いた。そのうちに気が散らなくなった。私は凡てを忘れて、近着の外字小説を読み初めた。
 何時(なんじ)頃だったか私は覚えていない。あたりはしいんと静まり返っていた。夜遅く書物を読んだり考え事をしたりしていて、ふと我に返ると、何等の物音も聞えず、何の気配もせず、時もその歩みを止めてるような静けさがあたりを支配し、宛も深い水底にでも陥ったような心地がし、凡ての物象が妙に冴え返ってくる瞬間が、よくあるものである。私はその晩、そういう瞬間にあった。そして、骸然と夢から醒めたかのように、或は一挙に悪夢の中へ投げ込まれたかのように、強い衝動を受けて椅子から立上った。……向うの襖がすーっと音もなく開いて、秀子が、石のように身を固くした秀子が、真直に私の方へ歩み寄って来たのである。彼女は総毛立った顔をしていた。真蒼な頬に深い皺を刻んで――私が嘗て見たことのない生々しい陰惨な皺を刻んで、底光りのする眼が、影のない硝子のような眼が、露わに飛び出していた。朝顔の花が淡く絞り出された単衣の寝間着を着、細帯を腰に巻いたままのその姿は、下半身に受ける電灯の光りが弱々しいせいか、宛も幽霊のように思われた。私は息をつめて、一瞬間無言のうちに彼女と向き合ってつっ立った。それから、最初の驚きをほっと一息吐き出すと、初めて現実に返った。やはり秀子自身だった。寝ていたのを起き上って、そっと私の室へ上って来たのであった。私はまた椅子に腰を下した。
「どうしたのだ、そんな姿をして。」と私は云った。

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