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「理想の女」 豊島与志雄 作  その8 

前回(その7)に引き続き「理想の女」を掲載します。


☆☆☆

理想の女 (その8)          豊島与志雄


秀子は私の卓子の横の方へ、他の椅子を引寄せて腰掛けた。暫く黙っていた。落付き払っていた。そしてこう尋ねてきた。
「何を考えていらしたの。」
 私はどう答えていいか分らなかった。彼女はまた云った。
「私がはいって来ると喫驚なすったわね。何を考えていらしたの。」
 いやに真剣なものを、私は彼女のうちに見て取った。そして、つとめて平静を保とうとした。
「だって突然音も立てないではいって来たんじゃないか。僕は初め幽霊かと思った。喫驚するのは当り前さ。」
 彼女は一寸鼻の先で、軽蔑的な笑い方をした。それからまた暫く黙っていた。
「何か用があるのかい。」と私は尋ねた。
「いいえ、何をしていらっしゃるのか一寸見に来たのです。」
 然しすぐその後で、彼女は急に顔を引緊めて、真正面から私に向って来た。
「私は今晩こそ、本当のあなたの心をききたいんです。そしてはっきりときまりをつけたいんです。」
「何のきまりをつけるんだ?」と私は平気を装った調子で答えた。彼女は私の言葉には頓着なく、先へ云い進んだ。
「あなたは、私に隠していらっしゃることがあるんでしょう?」
 私ももう真剣にならざるを得なかった。卓子の上に両腕を組んで、椅子に坐り直した。
「何を隠してると云うんだ。何にもありはしない。」
「心の中で苦しんでいらっしゃることがあるんでしょう。私にうち明けられないことが……。」
 私には彼女が何を云ってるのか見当がつかなかった。それで、自分の苦しんでいることと云えば、彼女もよく知ってる通り、どうして彼女と喧嘩ばかりしているか、どうしてこう反目し合うようになったのか、そればかりだと云った。これから先はうまくゆかないものか、どうしたら昔のような状態になれるか、そればかり考えてるんだと云った。自分の態度も悪い、然し彼女の態度にも悪い所がある、それをお互に矯正し合ってゆきたいものだと。
 彼女は私の言葉を耳にも入れないかのように、書棚の方へ眼を外らしていたが、然し心では私の底意を窺っていたが、途中で俄に私の言葉を遮った。
「いいえ、そんなことではありません。」
「では何だい? お前が真剣に尋ねる以上、僕も真剣に真面目に、何でも本当のことを答える。うち明けて云ってごらん。」
「私が云い出さなければ、どこまでも隠し通してみようというつもりなんでしょう。でも私にはよく分っています。いくらごまかそうったって、ごまかせるものですか。」
「だから何のことだか云ってごらんと云ってるじゃないか。自分から押しかけてきといて……。」
「図々しいと仰言るんですか。あなたの方がよっぽど図々しいじゃありませんか。」
 そして、私達の会話はぐるぐる同じ所を廻るだけで、いつまでも中心に触れてゆかなかった。このままでは例の喧嘩に終るの外はないと思った。そして一挙にきり込んでいった。
「お前は、僕がお前を愛さなくなったとでも云うのか。」
「さあ、どうですか。」と彼女は空嘯いた調子で答えながら、口元に皮肉な皺を寄せた。先刻からの焦燥の念が俄に反感に燃え立ってくるのを私は覚えた。
「愛さなければどうするというんだ!」と私は怒鳴りつけてやった。
「私がどうしようとあなたに関係はありません。」と彼女は答えた。「勝手にその女と一緒におなりなさるがいいわ。」
 私は呆気にとられた。茫然と彼女を見つめると、彼女は私の視線の下にじっと唇をかみしめていたが、倭に肩を震わして私の方へ向き直った。
「私はいつまでも厄介者にされていたくありません。出て行けと仰言るならいつでも出て行きます。云われなくったって私の方から出て行きます。」
 私は黙っていた。
「その女と結婚なさるがいいわ。けれど私にだって意地があります。どんなことになろうと、その時になって文句を仰言らないように、断っておきますよ。」
 私は自分の心が静に落付いてるのを感じた。笑いもしなければ、別に驚かれもしなかった。そして冷かに云った。
「お前は、僕が誰かに恋してるとでも思ってるのか。」
 彼女は答えなかった。
「僕ははっきり云っておく、僕には他に恋人なんかありはしない。……然し、お前は一体誰のことを云ってるんだ?」
「あなたは、まだごまかそうとなさるんですか。御自分の心に尋ねてみなさるがいいわ。」と彼女は答えた。
 穿鑿的な一種の興味が私のうちに湧いてきた。自分に覚えがないだけに、いやに頭が落付いていた。そして私は、知ってる女性の名前を一々挙げて尋ねた。彼女はそのどれにも、肯否の答えをしなかった。然し私が、「では夢の女なんだろう。」と嘲り気味の言葉を発すると、彼女は俄にいきり立った。そして「私に恋人があること」を、遠廻しに立証していった。私が始終出歩いてばかりいること、家に居ても様子に落付きがないこと、然し遊蕩を初めたのではないこと、なぜなら、酒気を帯びて帰ることも稀であるし、一晩も外泊して来たことがないから、そしてまた、女は子供を育てるのみが務めではないとよく云ってること、いやに何かを考え込んでばかり居ること、出かける時の慌しい様子のこと、みさ子に対して冷淡な素振りが多くなったこと、だから、「誰かに恋し初めてるに違いない。」という結論に達するのであった。
 私は云った。
「ではお前は、僕とお前との愛について僕がどんなに苦しんでるか、それを少しも知らないのか。」
 彼女は答えた。
「苦しんでは長谷川さんなんかの所へばかりいらっしゃるんでしょう。」
 私はつと身を起した。長谷川の妹のことを、道子のことを、彼女は考えていたのだ。
「お前は道子さんのことを考えてるんだね!」と私は叫んだ。
「いいえ、道子さんとは限りません。」
「馬鹿なことを云うな!」私はそれを押っ被せて云った。そして、長谷川の家へ屡々行くのは、いつもいい意味の気分を与えられるからであること、道子さんに対しては嘗て愛を感じたこともないし、これからも愛を感ずる恐れは決してないこと、第一文学なんかをやろうという女と恋することは、自分のような寧ろ家庭的な男には適しないこと、自分が長く苦しんでいるのも、自分のうちに家庭的な気分が濃いからだということ、そんなことを考えると道子さんにどんな迷惑を及ぼすか分らないこと、などを私は急き込んで説き立てた。
「どうだか、今に分ることですわ。」と彼女は答えた。
 私達は口を噤んだ。問題の中心にぶつかると、其処から先へは進めないで、未解決のまま止るの外はなかった。そうだ、「今に分ること」だったのだ。私はじっとしていた。彼女も私の卓子の横につかまりながら、身動きもしなかった。寝間着のまま素足で、眉根に皺を寄せ口をきっと結んで、眼を見据えていた。このままでいつまでもじっとしていたら、どんなことになるか分らない、と私は思った。夜が深く静まり返って、氷のような沈黙が落ちて来た。
「もうお寝み!」と私は云った。
 彼女は答えなかった。
 私は椅子から立ち上って、室の中を歩きだした。「お寝みよ!」と私はまた云った。彼女は黙っていた。私は歩き続けた。彼女の耳の後に垂れたほつれ毛が、堅くなって震えるのが見えた。「お寝みったら!」と私は三度云った。「あなたお寝みなすったらいいでしょう、」と彼女は答え返した。私はなお室の中を歩き続けた。それからまた椅子に坐った。自分の心がまた彼女の心が、最も悪い状態にあるのを私は感じた。私はじっと彼女の姿を見つめてやった。反感が、殆んど完全と云ってもいいほどの敵意が、私の身内を震わした。その時私が飛び掛って彼女を殴りつけなかったのは、彼女が寝間着一枚の素足のままで石のように固くなってるからであった。
「勝手にするがいい!」
 そう私は云いすてて、階下へ下りて行った。みさ子はすやすや眠っていた。私は堪らなくなって、着物のまま蒲団の中へもぐり込んで、夜着を頭から被った。頭が熱くなっていて、足先がぞくぞく冷たかった。傍の蒲団の中に寝ている秀子の姿を見出したのは、翌日眼を覚してからだった。
 そして、私達は朝から口を利き出した。然しそれは、如何に冷かな用件のみの言葉だったろう! 二人の間に深い溝が掘られたことを、私は感じた。激しい喧嘩の末、私達は二三日言葉を交えないことがあったが、それでもそういう反目は、お互に一つの根で繋ってるという意識から来る苛ら立ちで、繋りながら争ってるという苛ら立ちで、助長せられたものであった。所が今や、二人を結びつける根が断たれたような冷かさが、互に別個なものになったというような無関心さが、二人の間に挟まってきたのである。濡いのない言葉――感情の籠らない言葉を、互に時々交しながら、或る破滅を期待する恐れで、心を固く鎖していた。
 それが私には堪え難かった。家庭に於ける彼女の圧迫から来る息苦しさは、前方に破滅を予期する息苦しさに変っていった。而も彼女の弁解――あの場面(シーン)の中心問題――に再び触れることは、益々お互の心を遠ざけるもののように感ぜられた。「どうにでもなるようになれ!」そう私は半ば悲壮に半ば捨鉢に考えては、やはり外へ飛び出すのであった。私の心の底に、彼女と別れてそう惜しくはないという気持ちが流れているのを、私はまだ気付いていなかった。家に帰って来ると或る不安な恐れが私を囚えた。然し彼女は家の中に澄し込んでいた。道子のことをも再び云い出さなかった。
 私の足は長谷川の家から次第に遠のいていった。人から疑われることによって却って心が唆られる例は、よくあるものだけれど、私にはそういう暗示は更に働かなかった。余りに馬鹿々々しい気がした。問題は道子一人に在るのではないような気がした。そうだ。道子もその中の一人ではあったが、問題は道子一人に在るのではなかった。それでは誰に?……自ら尋ねてみて私は駭然としたのである。
 市内を彷徨してるうちに、私の眼は行き逢うあらゆる女に向けられていた。而もそういう私の眼は単なる路傍の人を見る眼とは違っていた。あらゆる異性の方へしたい寄る青春期の眼、慌しい而も執拗な、恥かしげな而も厚かましい、内気らしい而も露骨な、自分と相手とをすぐに真赤ならしむるような熱っぽい眼、それと同じものだった。私は自ら知らないで、眼の前を通り過ぎるあらゆる女の、髪の匂い、眼の輝き、唇の色、頸筋の皮膚、胸の脹らみ、腰の曲線、足の指先、などを臆面もなく而もひそかに窺っていた。その上、異性をよく知ってる私の眼は、青春期の童貞の夢幻的な眼よりも、相手の各局所を評価するのに鋭利だった。それだけにまた、私の眼には享楽的な実感が濃く裏付けられていた。
 問題は誰に在るかを自ら尋ねてみた時、私は初めて右の事実に気付いたのだった。秀子の嫉妬は、或る意味に於て至当だったのである。私はあらゆる女性に、心を――恋愛的な心を寄せていたのだ。あらゆる女性を対象として、現実的気分で塗られた恋愛を空想していたのだ。私の愛情は一人の女を離れて、少くとも心持の上だけでは、あちゆる女の上に分散させられていた。危険と云えば、凡ての女が危険だった。長谷川道子も、友人の妻君も、電車に乗り合した令嬢(ミス)も、劇場の廊下で行き合う夫人(マダム)も、カフェーの女給仕(ウェートレス)も、年若くて或る種の容姿を具えている以上は、皆危険だった。
 省みてこのことを気付いた時、私の驚きは如何ばかりだったろう! それは殆んど狼狽にも近かった。私は自分を取り失ったような気がした。妻に集中すべき愛情が一般女性の上に散り失せるということは、良人として最も悪い状態に違いない。而も、妻を殴りつけ市内を彷徨していながらも、遊里に夜を明かさないことをひそかに矜りとしていた私だったのだ。
 私は恥しかった。自分の心を制しようとした。然しそういう努力の結果はなおいけなかった。私の遊蕩的な眼は、なお頻繁にあらゆる女性の上に向けられ、また一方秀子の上にも向けられた。私は秀子を家庭内に於ける敵だと看做したのみでなく、また自分の若々しい生命を束縛する軛だと看做し初めた。私のうちに在る遊蕩的な悪魔は、あらゆる女性を享楽するの機会を得ないことに、不満を感じはしなかったが、あらゆる女性を享楽出来ない身分に置かれてるのを、憾みとした。
 私は冷かな評価的な眼で、秀子を――妻という名前で自分を束縛してる秀子を、眺め初めたのである。初めて逢った女ででもあるかのように眺めだしたのである。そして見出したのは、彼女の醜い点ばかりであった。馴れきった眼には、彼女の長所は映らないで、短所ばかりが映ってきた。
 彼女の眼の縁には、薄暗い隈が出来ていた。わりに細いけれども時々非常に魅力ある輝きを見せる彼女の眼は、その下眼瞼の隈のために、殆んど睫毛の柔かな影を失って、極めて露骨な陰険な光りを帯びるようになった。――眉の間までつきぬけていい恰好の鼻は、その先端に意外にも、小さな瘤を一つ拵えて、其処の皮膚にはざらざらした毛穴が開いていた。そして鼻筋の上、眉の間に、時々ヒステリックな皺が寄った。――真白な綺麗な歯並を覗かせる口は、角が引緊ってるために一寸は目立たないけれど、よく見ると不相応に大きかった。その上、上歯と下歯とがかち合って先端で平らに合さってるために、下唇が少しつき出て残忍な相を作り、それに圧迫されて上唇が萎縮していた。――それを包むふっくらとした頬は、肉が落ちたために深い皺を皮下に刻んで、笑う時や緊張した時に、その皺が表面に現われて来て顔全体を卑しくした。――頸から肩から上膊へなだれ落ちてる線は、しなやかで繊細だったが、その先を辿ってみると、腰と腿との間に急な曲線を拵えて、そのまま足先へかけてすぼんでしまい、全体の立像に不安定な危さがあった。手甲の面積に比較すると手指がわりに長いのに、指先がつぶれたように太くて、爪は縦の長さよりも横幅の方が大であった。そのために、元来は美しかるべき手全体が屋守(やもり)のような感じを与えた。そういう彼女は、殆んど一時間置き位には必ず、時には極めて頻繁に、鼻の両側に大きな皺を寄せて顔を渋めながら、簪か櫛かを髪の間に差込んで頭を掻いた。――甘えた調子の時には、上半身をうねうねと揺らしながら、宛もお手玉でもするような調子で左手で袂を弄んだ。屹となった時には、身体を固く保ちながら、両手を一緒に持ち寄って無意識的に指輪をいじくった。――食事の前には必ず両手で襟をきっと合した。食事がすむと、一寸小首を傾げて、それからお茶を飲んだ。お茶を飲む間に、大抵は香の物を一切れ食った。――寝る時には、寝間着に着代えた後一寸坐る癖があった。朝は、眼が覚めても長く床の中にはいっていた。愈々起き上ると、少しの休みもなく而も気長に身仕舞をした。
 私はそれらのことを、一種の皮肉な眼で発見していった。すると彼女は、何の気もつかないらしく、例の糸切歯の金の光りで私の眼をくらまそうとした。然し私には、その魅力が別の意味で感じられて来た。その糸切歯こそ、彼女の我儘な利己的な一轍な残忍さを迎合的な小悧口さで蔽った性質、そのままの象徴だった。
 私はこういうことを覚えている。近所に金棒引きの奥さんが居て、種々の噂を方々へ流布して廻っていた。その奥さんが、秀子のことを、生意気で我儘で仇っぽくて而も田舎者らしく、何でも地方のお茶屋か宿屋かそういう家の娘に違いないと、噂をしてるということが、何処からともなく秀子の耳に伝わった。秀子は真赤になって怒り立て、いつかとっちめてやると云い張った。私は彼女の怒り方が余り激しいので、揶揄(からか)い気味に、「そういう風な所もお前のうちに在るよ、」と云ってみた。それがなおいけなかった。彼女は益々憤った。それで私は、あの奥さんの単なる噂に心から苛ら立つのは、自分を向うと同等の地位に引下げることで、教養ある者の取る態度ではないということを、諄々と説いてやった。然し彼女には、私の云う意味がよく分らないらしかった。いつまでも腹を立てていた。その奥さんと途中で逢っても、挨拶もしないらしかった。所が一ヶ月ばかり過ぎた後に、その奥さんと愉快げに談笑してる彼女を、私は見出した。一寸喫驚した。「どうして仲直りをしたんだい、」と尋ねてやった。すると彼女は答えた。「仲直りなんかするもんですか。でも可哀想だから調子を合してやってるんですわ。」そして彼女は影で、その奥さんのことを軽蔑的に悪口し続けた。私には彼女の心理がよく分らなかった。なぜなら、私が説いてきかした教養のある者の取る態度と、彼女の態度は結果に於て多少類似はしていたけれど、心の動き方は全く反対らしかったのである。――前年の年末に、秀子は、遠縁に当る家へと世話になった家へと二つの進物を整えた。一つは、二羽の鳩が古い汚い果物籠の中に押し込んであり、一つは二羽の鴨が進物用の綺麗な籠の中に並べられていた。後者に就ては私も文句はなかったが、前者に就ては少からず驚かされた。そして彼女にそのことを責めた。「これで沢山ですわ、」と彼女は答えた。私は説き立てた、普通の場合なら兎に角、年末の進物として他家へ贈るのにそんな不体裁なことは止したがいい、一層鳩だけにするか、または他方のと同種の立派な進物籠に入れるか、何れかでなければ先方の感情を害すると。然し彼女は平気だった、あの家へならどんな体裁ででも構わないと答えた。「それではお前の気持ちが済むまい、」と私は尋ねた。「何とも思いませんわ、」と彼女は答えた。それで私は、相手の如何によって自分の態度を二三にするのは最も下等なことだと、詳しく説き立てた。すると彼女は、態度は相手によってきめるべきであって、一つの態度で世の中を渡れるものではないと、反対に主張しだした。そして彼女は私の言には頑として応ぜずに、汚い籠のまま鳩を贈ってしまった。――相手の如何によって態度をきめるというのが、彼女の信条であるならば、私は何も云うべきことがない。私が彼女を愛しないならば、恐らく彼女も私を愛しないだろう。愛は心の態度である。実際彼女は、私の心の如何によって自分の心の態度をきめようとしているではないか。心の自然の推移によって、彼女が私を愛しもしくは愛しないのならば、それを私は聊かも憾みとはしない。然し愛を取引視せられることは堪らない。私が理想とする女性は――私に理想の女性があるとすれば、それは……。
 ああその時になって、秀子と結婚して二年後になって、私のうちに「理想の女」が眼覚めてきたのである。そして私は初めて、この理想の女に秀子を比較してみた。何という違いであったろう。精神的にも肉体的にも、殆んど比較にならないほどの差があった。然し理想の女の本体は、まだ捉え難い空漠たるもので、少しも具体的のまとまりを有しなかった。ただ、それを秀子と比較してみると、秀子の有する肉体的精神的の醜い点が、一々はっきり浮き出してきたのである。そしてそういう醜い点を一つも具えていないというだけの空漠たる姿で、理想の女が私の前につっ立ったのである。
 私はかかる架空的な理想の女を標準として、秀子に厳密なる批判の眼を向けた。そして私の考えは過去にまで溯って、どうして秀子を自分は選んだのであるかという問いに到達した。私はそれに答えることが出来なかった。秀子との会逅、其後の熱烈な恋愛、父母や親戚の人々の非難と反対、それを断乎として郤けつつ払った犠牲、遂に自由恋愛を貫き通した結婚、それまでの経路を回想してみると、私は其処に何等必然的なものを認めなかった。凡てが偶然のうちに運ばれたもののように考えられた。それならば、周囲の障碍をあれほど力強く突破してきた私の意志は、一体何であったか、何処から出て来たのであったか? それは単に青春の空想と悲壮な感激性のみだった。それは凡て私のうちに在ったもので、秀子と私との間の必然ではなかったのだ。秀子でなくともよかったのだ。他の如何なる女性ででもよかったのだ。そしてたとえこういう考えは時の距りと現在の心の状態とに欺かれてるものであるとしても、今眼前に居る秀子は、果して私が一生の伴侶として満足し得らるる女性であるか? 否。それでは、私は一生を不満のうちに終るか、または妻というものに対するあらゆる要求を捨て去るか、二途の外はないのである。……秀子と別れる! 私はその考えを押し進めることが出来なかった。恐ろしかった。余りに恐ろしかった。そして私の前には、ただ選択を誤ったという事実のみが残された。
 選択を誤ったのならば、何処かに本当の選択が残されてる筈だった。私は秀子と別れるという考えをはっきり意識せずに、結果を予期せずに、残された選択を探し廻った。街路を彷徨する私の眼は更に執拗になっていった。ああ、理想の女を探し求める、それほど馬鹿げたことがあるだろうか! 理想は常に理想として止るのだ。それは単に吾々の方向を指示するだけで、到達せらるる距離に在るものではない。然し私はそんなことをはっきり考えなかった。運命づけられた「自分の半分」の存在を、現実に信じていたのである。失望は当然だった。私は如何なる女にも理想の女を見出さなかった。そして更に悪いことには、秀子よりもよりよく理想の女に近い者を、多くの女に見出したのである。
 昏迷しきった気持ちで夜遅く帰って来ると、秀子は子供に添寝しながら、鎖骨のとび出た胸をはだけたまま眠っていた。もしくは眠ったふりをしていた。朝眼を覚すと、彼女は自分の蒲団に戻っていたが、額には四五筋の髪の毛が、ねっとりとこびりついてることがあった。夜中に夢にでも魘(うな)されたのだろう。その髪も産後の抜毛に薄くなって、生え際が妙に透いて見えた。起き上って髪を束ねるのに、長く時間を費した。表皮だけが白くて底艶のない顔をしながら、鋭い光りの眼で冷かに私に対した。そして殆んど熱狂的に、終日子供の世話ばかりやいていた。晩になるとよく居眠りをした。冷たい沈黙が家の中を支配した。そして同じような日々が、今に何か起りそうな危い瀬戸際をするすると滑るように、而も事もなく明けてはまた暮れた。私は殆んど書物も読まず仕事もしなかった。二階の書斎に寝転んだり、外へ出かけたりした。
 そういううちに、私はふと千代子の夢をみるようになった。――千代子というのは私の叔父の一人娘で、私は幼い時からよく知っていた。始終往き来をしていた。そのうちに、私が大学に進み彼女が女学校の上級になると、隙が少いのと何だか憚られるのとで、いくらか疎遠がちになったけれども、互の心は両方から歩み寄っていた。彼女は四年級の時から卒業まで引続いて、然し慰み半分に、旧派とも新派ともつかぬ和歌を学んでいた。時々私へ自作の添削を頼んできた。私の方が彼女よりずっとまずかった。私が筆を入れた歌は余り先生から誉められなかった。それでも、私も彼女も満足していた。友情とも愛情ともつかない心が、次第にごく静かに深まっていった。その時、私と秀子との暴風のような恋愛がはじまった。それは凡てを吹き払ってしまった。所が間もなく、千代子は十八の秋に、肋膜と横隔膜とを同時に病んで、短い臥床の後に死んでしまった。私は彼女の位牌の前で、しめやかな涙を流した。それには秀子との恋愛の感激から来る涙も交っていた。私は秀子に彼女のことを話した。「あなたはその方を愛していらしたのでしょう、」と秀子は尋ねた。「愛してはいたような気がする。然し恋してはいなかった、」と私は答えた。其後私達は二人で、千代子の墓参りをしたことがあった。――その千代子のことを、私はふと夢みるようになった。何故だか私は知らない。恐らくは、理想の女を求めあぐんでいた私の心は、記憶の隅々までを漁って、気まぐれに彼女の色褪せた姿を捉えてきたのであろう。なぜなら、やがて理想の女と彼女の幻とは、私の頭の中で一つになってしまったから。
 私は屡々その夢をみた。何れも、何等の場面も事件もない、断片的なものばかりだった。彼女と遊んでる所(何の遊びだか分らなかった)、話をしてる所(何の話だか分らなかった)、黙って向い合ってる所(何処でだか分らなかった)、彼女が一人で佇んでる所、そういう極めて瞬間的なものばかりだった。然し夢からさめた後で、何だか妙な気がした。他の凡てのことがぼやけて、彼女のみが馬鹿にはっきり残っていた。勿論その顔立や姿などはぼんやりして分らなかったが、「彼女だ、」ということだけが明瞭に頭へ刻み込まれた。その上、夢の後で変に不安な胸騒ぎがした。どうも不思議だったのでつい秀子へ口を滑らすこともあった。「そうお、」と秀子は簡単に答えた。私も大して気にはしなかった。
 所が、度重なるに従って、私は気になりだした。千代子の夢をみた後で、彼女に対して、しみじみとした、やるせないような、胸が苦しくなるような、変梃な気持ちを覚えた。しまいには、夢をみないのにみたと、眼を覚す瞬間に感ずるようになった。そして、私は一種の愛着を彼女に対して懐くようになった。その愛着の情が次第に募ってくると、いつのまにか「理想の女」と「彼女」とが一体をなして、私の心を惹きつけてしまった。私は夜早く寝るようになった。外へ出かけて早く帰って来るようになった。夜中に何度も眼を覚した。それは何とも云えない蠱惑的な楽しみだった。私はその怪しい瞬間的な愉悦に、自らつとめて耽ろうとまでした。そしてなお私が心を惑わしたことは、秀子までが彼女の夢をみたのだった。
 或る朝、秀子は私に云った。
「今朝がた、千代子さんの夢を見ましたわ。」
 私は驚いて彼女の顔を見つめた。そして口早に尋ねた。
「え、どんな夢? 何をしてた所だ? そして、初めてなのか、また何度もこの頃みるのか?」
 私はへまだったんだ。秀子は私の様子を見て、何かに慴えたように肩を縮め、暫くじっと私の眼の中を覗き込んだ後に、漸く答えた。
「覚えていません。」
「覚えていないことがあるものか。どんな夢だったんだ?」と私はたたみかけて尋ねた。
 彼女の様子は俄に変った。彼女は冷笑的に答えた。
「あなたは、まるで恋敵きみたいな調子ね。」
 私は何か大きなものにはね飛ばされたような気がした。云い知れぬ憤りで頭が熱くなった。手の届く周囲を見廻した。敷島の一袋が眼にはいった。それを取るといきなり彼女へ投げつけた。煙草は彼女の所まで届かないで途中で落ちて散らばった。
「馬鹿ッ! 恥を知るがいい!」
 そう云いすてて私は二階へ上った。
 然し、書斎の中でほっと我に返ると、私は顔が真赤になった。私こそ恥を知るがいいのだ。私はじっとして居れないで、室の中を歩き出した。縁側に出てみた。卓子の前の椅子に腰を下した。窓から外を覗いてみた。そして漸く気分が和らいだ。然し、取り返しのつかないことをしたという惨めさが、深く私の心に残った。
 嫌な――嫌忌すべき日が続いた。絶えず冷笑的な眼で秀子から窺われてることを私は感じた。その眼は私の夢の中までも覗こうとしていた。私は数日前に千代子の夢を見たと思って眼覚めた時、自分が遺精してることを知った。その時はさほど気にしなかったが、今になって思い出すと、穴にでもはいりたい気がした。それでも私は、秀子の執拗な眼付から隠れて、やはり千代子の夢をみ続けた。夢をみて夜中にふと眼を覚すと、先ず秀子の方を顧みた。そういう懸念のために私の清らかな千代子の幻は、どんなに毒されたことであろう。私は秀子を本当に憎む気になった。然し千代子はもう故人なのだ! 私はどうすることも出来ない淵へ陥ってゆく自分を見た。恋人に別れる悲痛さはまだ堪えられる。亡き人に恋し初めたという悶えは、どうすることも出来なかった。
 或る夜、私はまた千代子の夢から覚めた。隣りの床に寝てる秀子の方を窺うと、彼女は眠っていた。私は仰向に真直に寝返って、天井を仰いだ。絹覆をした電灯の光りが、室の中に薄ぼんやりと湛えていた。夢のような静けさだった。私は天井に眼をやりながら、消え去った幻の跡を追っていた。長い時間がたった。と、何かに私はぞっとした。あたりにそっと気を配ると、秀子がぱっちり眼を開いて、私を見つめていた。私は息をつめた。じっとしていた。暫くすると低い落付いた声が聞えた。
「あなたは、千代子さんの夢をごらんなすったんでしょう。」
 私は黙っていた。
 また囁くような声が聞えた。
「私もみました。」
 暫く沈黙が続いた。
 私は秀子の方へ顔を向けた。彼女は大きく眼を見開いて、なお私の方を見つめていた。
 口をきっと結んで、頭をがっくりと枕にのせ、瞳を据えていた。その顔全体が仄白い蒼さで浮き出していた。まるで死人の顔だ。私は冷たい戦慄が背中に流れるのを覚えた。すると、彼女もそれを感じてか、急に布団をはねのけて、上半身を起した。そして私の方へ向き直ると、慴えたような調子で叫び出した。
「私はもう嫌です。あなたと一緒の室に寝るのは。二階に寝て下さい。気味が悪くって嫌です。」
 私は惘然として、急には言葉が出なかった。暫くして尋ねだした。

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