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「理想の女」 豊島与志雄 作  その9 

前回(その8)に引き続き「理想の女」を掲載します。


☆☆☆

理想の女 (その9)          豊島与志雄


「何が気味が悪いんだ?」
 彼女は黙っていた。
「千代子さんの夢をみるのが気味悪いのか。」
 彼女は身動きもしなかった。
「僕が千代子さんの夢をみるのが気味悪いのか。」
 彼女はやはり身動きもしなかった。
「何が一体気味悪いんだ?」
 彼女はじっとしていた。
 私は急に気が苛ら立って来た。どんなことを自分が仕出かすか分らないと思った。じりじりと時間が迫ってゆくような心地だった。私は叫び出した。
「云わないのか。何が気味悪いんだ? 黙ってると僕はどんなことをするか分らない。どんなことになるか分らないんだ。云ってごらん!」
 彼女は冷たい没感情的な声で云った。
「あなたの様子が気味悪いんです。」
「僕の様子が?……」
 私は続けて何か云ってやろうと思ったが、言葉が見付からなかった。じりじりしてきた。然し、私はその時、自分がやはり仰向に寝たままなのを気付いた。仰向にじっと寝たままで叫んでる自分の姿が、私の心にはっきり映じた。そのことが苛ら立った感情を引き緊め澄み切らして、其処に喰い止めてしまった。私は意識が中断されたような透徹した心地になった。彼女は半身を起したままじっとしていた。
 私達は黙っていた。長い間だった。私は落付いた調子で云った。
「僕の様子が気味悪いんだって? お前は嘘を云ってるね。……然しそれならそれにして置こう。もう尋ねない。だがお前は自分の様子がどんなに気味悪いか、自分で知らないだろう。」
 彼女は何とも答えなかった。それでもやがて、静にまた横になって布団を被った。私もそれきり口を噤んだ。だいぶ暫くたってから、彼女がすすり泣いてるのを私は気付いた。然し黙っていた。今更どうにも仕方がないと思った。
 翌朝私は、悪夢に魘(うな)された後のような気分で床を離れた。自暴自棄の感情が動いていた。一方には軽くはしゃいでる感情もあった。滑稽なおどけた感情もあった。そしてそれらを、白日夢の惑わしい気分が包んでいた。私は自分自身がよく分らなかった。秀子は私に一言も口を利かなかった。私は無関心だった。書斎にぼんやりしていると、壁に掛ってる父の肖像が眼についた。生きてるようにありありと父の姿が浮んできた。……私ははっと卓子を一つ叩いた。そうだ、千代子の写真に逢って来よう! それから先はどうにでも、なるようになるがいい!
 出かける時に、私は秀子へ何か一言云ってやりたかったが、言葉が見つからないうちに、私の身体はもう玄関を出ていた。私は真直に叔父の家へ向った。
 それは、恋人に逢いに行くような気持ちでもなければ、恋人の写真を見に行くような気持ちでもなく、何だか神秘なものを覗きに行くような感じで、而も捨鉢な気持ちだった。私は途中から電車を捨てて、辻俥に乗り、幌をすっかり下した。
 叔父と叔母とは、僅かな財産を一生のうちにゆっくり食いつぶす覚悟で、ただ隙つぶしに漢学の僅かな弟子を取るだけで、小さな借家に閑散な日を送っていた。私が訪れると、丁度二人共在宅だった。
 私は随分長く姿を見せなかったことを詑びた。然し二人はそんな疎遠不疎遠などを頓着するような人ではなかった。私が顔を上げると、いきなり叔父はこう云った。
「やあ随分痩せたようじゃないか。どうしたんだい。顔の色も悪い。」
 私は種々なことを尋ねられそうなのを恐れて、すぐこう切り出してみた。
「実は急な用で上ったんです。千代ちゃんの写真を一寸見せて下さいませんか。」
 私は自分でも少し声の震えるのを感じたが、叔父は気付かないらしかった。
「千代子の写真、妙な物に用があるんだね。死んだ者は仕方がないじゃないか。……おい出しておやりな。」
 私は叔母の方へ云った。
「よく似た人が居るものですから……。なるべく新らしいのが見たいんです。一枚だけで沢山です。」
 叔母は手文庫の中から、最近の――死ぬ学年前の写真を取り出してくれた。私はそれを手に取って、眼をつぶったまま膝の上で披き、そしで眼を開いてみた。
 ああその時私は、どんなに驚き、次には冷たくなり、次にぼんやりしてしまったことだろう。千代子の顔は、「彼女」――否「理想の女」とは、殆んど似もつかぬものであった。半身を少し斜にした姿が、肱掛椅子にかけ、手には扇を持っていた。その顔をよく見ていると、なるほど見覚えのある親しい点が一つ一つ出て来た。それは千代子に違いなかった。斜め左から両方へ分けられた髪が、冷悧な広い額を半ば隠していた。眉尻が心持ち下り、眼尻が心持ち上っていた。はっきりうち開いた眼の中に、艶やかな瞳が上目がちに置かれていた。下唇が殆んど目につかない位に歪んで、軽く上歯に噛まれてるような心持ちを与えていた。額から細り加減に落ちている双頬の線が、奥歯のあたりで一寸膨らんで仇気なさを作り、細い三角形の頤に終っていた。そういう顔の真中に、小鼻のよく目立つ細い鼻が通っていた。……私はそれらに皆見覚えがあった。そして其処に、親しい千代子の姿がありありと浮んできた。然しそれは、私の幻とは全く異っていた。どう異っているかを私は指摘することが出来なかった。全体の気持ちが全く異っていたのである。そして私の彼女は、理想の女は、再び空漠たる所へ消え失せてしまった。私の手にはありし日の千代子の実際の姿だけが残った。
「どうしたんだい、大変ぼんやりしてるじゃないか。」
 そういう叔父の言葉に、私は初めて我に返った。そして何を云ってるのか自分でもよく分らない言葉を、叔父と叔母とに交したまま、私は急いで辞し去ってしまった。
 凡ては惑わしだったのだ。然し私は、この幻滅に対してどう身を処していいか分らなかった。千代子は消え失せたけれども、「理想の女」は残存していた。そして、それは一つの焦点を失ったがために、一の像(イメージ)でなくなって影となったがために、私の前後左右至る処につっ立ってるような気がした。街路の曲り角、並木の下、電柱の横、奥まった扉口、凡そ人が身を寄せ得る処ならどんな処にでもじっと佇んでるような気がした。而も私が実際眼をやると、其処には誰も居なかった。理想の女に似もつかぬ幾多の女性が、あちらこちらに往き来していた。……然し、私にとっては、彼女等は凡て仮象に過ぎなかったのだ。私にとって真に現実なのは、眼に見えない「理想の女」のみだった。眼には見えないが、何処かに、すぐ近くに、立っているような気がした。
 なるべく影の多い奥まった所を、誰かが――彼女が立っていそうな所を、私は覗き込みながら歩き続けた。
「うううう、」と何かが唸るような声がした。私は喫驚して立ち止った。私は或る神社の境内にはいって、ぼんやり歩いてるのであった。声に驚いて眼を挙げると、紺絣を着た十六七の男が赤坊を負(おぶ)って、私の前に立っていた。彼はまた「うううう、」と唸りながら、私の手を指し示した。見ると私の手には、火のついた紙巻煙草があった。これだなと私は思った。そして袂から煙草を一本取り出して、若者に与えた。彼はそれを黙って受取ったが、また「うううう、」と唸った。私はその顔を見つめた。彼はきょとんとした眼付で、私の手の煙草を見つめながら、変に先の曲った指で、煙草の火を指し示した。私は煙草の火を差出そうとしたが、思い直して、マッチをすってやった。若者は煙草に火を吸いつけると、その煙草をすーっと吸い込みながら、「うー、」と長く引いた音を喉から出した。私が黙っていると、彼はまた「うー、」と云った。私は嫌な気がしてふいと立ち去った。後ろから、「うー、」という唸り声が追っかけてきた。私は足を早めた。
 暫く行ってふり返ると、もう其処には誰も居なかった。
 然し、その盲目的な唸り声が、いつのまにか私の心にはいり込んでいた。私は「うー、」と唸ってみて、自分でも喫驚した。そしてその後で、妙にぽかんとしてしまった。何かに憑かれてるような自分を見出した。街路をやたらに歩き廻りながら、「うー、うー、」と心で唸ってみた。何だか可笑しかった。と同時にまた、自分が顔が今にも泣き出しそうに歪められてるのを、私は意識していた。どうにもならなかった。どん底まではいり込まなければ承知出来ないような気がした。
 私は或る料理店へよって、酒を飲んだ。無理に酔っ払おうとした。女中の口先に乗ってうつかり菊代を名指してしまった。菊代というのは、私が市内を彷徨してるうちにいつしか顔馴染になった妓(おんな)で、一二度機会があったにも拘らず、私は深入りするのを避けていたのだ――秀子のために。
 菊代が来ると、私は妙に苛立ってきた。やたらに彼女へ杯をさしつけた。重苦しいへまな冗談口を盛んに利いた。しまいにはその三味線を奪い取って、変な手附で「一つとや」を弾き出した。自分自身が滑稽だった。滑稽を通り越して泣きたかった。「松飾(まつかざ)りーい、松飾り、」の所へ来て手を忘れた。つかえてしまった。私はぴんと三本の絃(いと)を引き切ってしまった。
「まあ、何をなさるのよ。」と彼女はつめ寄ってきた。
 眼瞼の薄い小賢しい眼が、妙に黝(くろ)ずんだ光りを帯びて、緊りのない脹れっぽい顔付に、一寸敵意らしい険が漂っていた。私はその顔を見つめた。
「僕は今晩は帰らないよ。」と私は吐き出すようにして云った。
 彼女は一寸瞬きをした。次の瞬間には妙に荒々しい素振りになっていた。
「卑怯な方ね!」と彼女は云った。「帰ろうたって、もう帰すものですか。」
 彼女は酔っていた。私も酔っていた。それから私達は、別の奥まった家の狭い室で、時間過ぎの酒を飲み初めた。自分自身の魂を踏み躪りたいような、また妙に冷たい敵意のある意識が、ちらりと起きかけるのを、私はむりやりに酔いつぶしてしまった。酔いつぶれると、ただ空虚な渦巻きの世界のみだった。
 翌朝遅く、爛れた舌を鍋の鳥で刺戟しながら朝食を済すと、私は菊代に碌々挨拶の言葉もかけないで、慌しく其処を飛び出した。空が晴れていた。明るい日の光りの下で、自分自身が堪らなく惨めに思えた。凡てが穢らわしく呪わしかった。そのくせ意識がぼんやり曇っていた。何か忘れたものがあるようだったが、それがどうしても思い出せなかった。
 私は他人の家へでもはいるような気持ちで、ぼんやり自家の門をくぐった。
 所が、其処に出て来た秀子の顔を見ると、私のうちにむらむらと反抗の気分が湧いた。彼女はお帰りなさいとも云わないうちに、冷然と、それでも眼を伏せ唇をかみしめながら、真先にこう云った。
「男の意地って下らないものね。」
 私が叔父の家へ泊ったことと彼女は思ってるのだ、そう私は推察した。そして云ってやった。
「何が下らないんだ?……叔父の家へなんか泊るものか。」
「そうでしょうとも。」と彼女は答えた。「どうせ、穢ならしい狭苦しい家なんでしょうよ。」
 彼女は顔の筋肉一つ動かさなかった。私は彼女から極端な蔑視を受けてることを感じた。然し咄嗟に言葉が出なかった。そして一寸間が途切れると、もう何も云うべきことが無かった。私達は黙り込んでしまった。
 私は頭と身体とが困憊しきっていた。二階に上って、椅子にかけたままうとうとしながら、凡てを忘れてしまおうとした。頭が茫として力が無かった。訳の分らない象(すがた)が入り乱れて、白日夢を見てるような気がした。……と、私ははっと我に返った。縁側に、障子の向うに、誰かがしょんぼり伴んでいた。それがはっきり見えてきた。「彼女だ!」と私は心に叫んだ。すると、その姿は煙のように消えてしまった。私は心乱れながら、縁側に出てみた。明るい日の光りが、大気のうちに一面に漲っていた。私はその真昼の明るみの中に、取り失った姿を探し求めた。菊代のことが頭に映じてきた。そして昨夜のことが……それは、噫、「彼女」を心に描きながら行った自涜行為に過ぎなかった。私は庭の方へ、かっと唾をした。その後で、堪らなく淋しく悲しくなった。
 私は不快と寂寥との余り、昼食も取らなかった。湯に行ってみると、蒼い血管の浮いて見える自分の肉体が惨めで汚く思われてきて、すぐに飛び出してしまった。外を歩く気にもなれなかった。家にじっとしてる気にもなれなかった。「彼女」が何処かに、至る所に、立っているように思えて、しきりに気にかかった。
 そして夕方、座敷の隅に眠ってるみさ子を見出した時、私は泣きたいような心地になった。私はその側に惹きつけられた。みさ子は、片手を肩にかついだ恰好に布団から出して、すやすや眠っていた。私の気配(けはい)を感じてか、夢をみてか、それとも無心にか、乳を吸う形に唇を動かした。その小さな濡った唇に、私は自分の唇を持っていった。それから俄に身を引いて後ろを顧みた。誰も居なかった。ああ私は誰に気兼ねをしたのであったか! 私はまた自分の口を、子供の柔かな頬へ持っていった。それから額へ唇をあてた。香りのある温い子供の肉体と心とが、私の唇に感ぜられた。我知らず涙が出て来た。布団から出てる手をそっと入れてやろうとすると、みさ子は眼を覚した。私はそれを胸に抱き上げてやった。なおむずかるので、立ち上って歩いてやろうとした。一足歩き出すと、室の入口に秀子が立って、じっと私の方を眺めていた。私は眼を外らした。秀子は歩み寄ってきた。私達は無言のうちに子供を受け渡しした。その後で私は、自分が如何に卑屈であるかを感じた。私は両の拳を握りしめて、秀子の方を睥みつけてやった。彼女は其処に坐って、子供に乳を含ました。ごくりごくりと乳を吸ってる子供の上に、彼女は庇うように頬を押し当てていた。私は握りしめた拳をそのままに、自分の書斎へ逃げていった。
 二階にじっとしていると、階下(した)で子供の泣く声が聞えてきた。それを賺してる秀子の声もかすかに聞えてきた。乳の出が悪くなったのを、一人は泣き一人は困ってるのだ。私は堪らない気がした。
 その晩から、私は一人二階に寝た。私は凡てを失ってしまったのだ。秀子をもみさ子をも家庭をも愛をも。私の手に残ったものは何もなかった。然し私に残ってるものは唯一つあった。それは「彼女」――「理想の女」であった。永久に具体的な形を取ることのない女性だった。私はそれに囚えられてしまった。そして、あらゆる持続的な男女関係が恐ろしくなった。一人の女を守る時、私は必ずやその女を「理想の女」に照して眺めるに相違ない。然るに凡ての女は、たとえ恋した女でも、私にとっては「理想の女」の仮象に過ぎない。仮象はやがて本物のために消滅せられる運命に在るのだ。而もその仮象によって得た子供だけが、仮象の女の手の中に、私自身の血を享けて現実に残るのだ。私は恐ろしくなった。
 私は間違っていたのだろうか? どの点が間違っていたのだろうか?……私の心は何処にも安住出来ずに、永久に彷徨し続けるの外はなかった――徒らに「理想の女」を追い求めながら。

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