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憲法第9条の改正の是非について。 

12月2日の当ブログの記事に対して12月/05(金)に寄せられた「オサムっち」さんのコメントに半ば反論する形で、田母神論文問題、というよりは憲法9条の問題を再検討してみたい。

以下、「オサムっち」さんのコメントです。


☆☆☆

私も昔は憲法改正反対、9条堅持と考えておりました。しかし、今は憲法を改正すべきと考えるようになりました。私が憂うのは、憲法を遵守すべき政府が、憲法を軽視し、憲法の隙間を縫って自由に法律を制定してしまっている現状です。問題を9条に限っても、テロ特措法、有事法制など、9条をないがしろにしていることは明らかです。「世論によって権限拡大を防ぐことは割りと簡単」とおっしゃっていますが、防衛庁が防衛省に格上げされるなど、現状は拡大の一途をたどっております。

そもそも9条の解釈は自衛隊の存在自体を違憲とするのが通説であり、私もそのように考えます。しかし、それでは自衛隊を解散してしまおうという国民がいったいどれだけいるでしょうか。私個人も自衛隊は必要だと考えております。国防を国民が担うのは国民=国家であることから自衛として当然のことであるし、国防を他国に依存すること(日米安保条約)を前提とした現在の9条はあまりに不安定で、安保条約がなくなってしまえば国防という観点から見た場合の9条の存在意義は途端に灰燼に帰してしまうからです。そして、貴方のように安保条約を廃止し、それで他国の攻撃を受けた場合には死んでもかまわないと考えている勇気のある国民はそう多くはないでしょう。

憲法制定権力は主権者たる国民にありますが、多くの国民がおそらくは自衛隊の存在を肯定していると考えられます。とすれば、現在の9条はその部分に関して、国民意思からも乖離してしまっているのではないでしょうか。そして、国民意思によって担保されていない憲法だからこそ、与党政府はこれを軽視するのです。

憲法を改正するということは国民の意思を憲法に反映させることで国家権力を抑制するという意味を持ちます。憲法を改正するということは決して9条を廃止するということではありません。9条を改正することは必要ですが、9条1項をそのまま堅持するということは可能です。また、よく、「この憲法は押し付けだ」という意見が改正派からでますが、押し付けであろうと良いものは良いのです。憲法改正により憲法の理念と国民意思を合致させ、押し付け論を根拠とする改正派を否定することも可能となります。

私が考えるのは、9条の持つ平和の理念を放棄しようということではなく、現実的に平和を希求し、実現すべく、憲法を規定しなおそうということです。「大多数の国民は9条放棄を願っていない」のではなく、大多数の国民は憲法の理念たる平和主義の理念の放棄を願ってはいないのです。

☆☆☆



さて、私は、純然たる自衛に徹する限りにおいては、自衛隊の存在は合憲だと考えます。マッカーサー草案における「自衛のためとしてさえ、戦争を放棄する」という文言が結果的に排除されたことの反対解釈としてそういうのではない。それが国民感情にもっとも合致する解釈だと思えるからです。

そもそも、「自衛とは何ぞや」ということに対する共通認識が形成されていないことが問題なのであって、ここをはっきりさせるだけでも、部分的とはいえ自衛隊の存在意義が明確となり、自衛隊員が抱える憤懣も多少は和らごうというもの。

この「自衛」に通いて考える前に、よく似たものとして、刑法にいう「正当防衛」と「過剰防衛」について取り上げたい。過剰防衛とされないためには、その防衛行為が自分や他人の権利を防衛するために必要かつ相当な程度で行われなくてはなりません。ただし、逆上して防衛の意思のみによる冷静な反撃行為が取れなかったからといって直ちに過剰防衛と断ぜられるものでもありません。

この「正当防衛」も、なかなか単純には説明できないところなのですが、様々な判例や学説を経て、正当防衛の相当性についての一定の説得力のある結論がいまや醸成されているところであります。たとえば、駅で酔っ払いから身を守ろうとした女性が、軽く突き飛ばしたところ、その酔っ払いがホームから落ちて死んでしまったからといって、必ずしも過剰防衛とはならないというのが通説であり判例です。

自衛隊による「自衛」についても同様に考えたらいいと思う。正当防衛と国防とはもちろん同列に語れない部分もありますけど、基本は一緒です。本当はもっと「自衛とは何ぞや」ということについて議論を重ねるべきなのですが、それを期待もできないのが現状でしょう。ならば、いやというほど議論が重ねられてきた「正当防衛」の考え方を参考にするのが賢明かと思われます。


刑法の「正当防衛」については、次の4つが成立要件とされています。

1. 急迫の侵害であること。
2. 不正な侵害に対するものであること。
3. 自己または他人の権利防衛のためであること。
4. やむを得ずにした行為であること。


一方、日本政府としては、自衛権発動の要件として次の三つを掲げています。

1. 我が国に対する急迫不正の侵害があること。
2. これを排除するために他の適当な手段がないこと。
3. 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと。

よく似ていますよね。


でも、自衛隊の防衛行為がどこまで許されかについての議論は、一般庶民のレベルではほとんどなされていません。政治家だって、どこまで深く理解しているか怪しいものです。

集団的自衛権等の問題も大事なのですが、まずは、「自衛とは何か」という国民的議論を惹起させなければ、話はちっとも進まないと思われます。


で、話は変わりますが、日本国民のメンタリティーを鑑みるに、9条堅持はやはり必要だと思われます。

オサムっちさんが言われるように、憲法9条と国民意思が乖離している部分があるのは確かでしょう。憲法9条の恣意的解釈が横行することは避けねばなりません。憲法軽視の風潮を看過することは、極端な話、国民のアイデンティティー崩壊にもつながりかねません。

でも、恥の文化を持つ日本人。山本常朝の「葉隠れ」の一節「武士道とは死ぬこととみつけたり」の精神がどこか生き続けている日本人。生還を考えない体当たり戦法をとった神風特攻隊をかつて擁した日本人。是非の議論はともかく、それらのものが存在しえたこの日本。そのメンタリティーを無視した議論はあまり意味がないように思います。

リアリスティックな議論になれば、9条改正を当然と主張する者も多いと思いますが、ただ単に流されてそう主張する輩も多かろうと思います。しかしですね。いざ、憲法改正のための国民投票となったとしたら、まさに未曾有のことですから、空前絶後の大議論がそこかしこで行われると推察されます。そこで、いかにも日本人的なメンタリティーが発揮されると思うのです。おそらく、あえて9条は堅持すべきとの結論がでることでしょう。

9条による歯止めを崩すことを恐れる日本人は相当多いと思われます。
いや、間違いないでしょう。



かなり酔っ払いました。
でも、書いたことには責任を持ちます。

9条は改正するべきではないし、また、改正されもしないでしょう。



オサムっちさん、
改めまして、真摯なコメント有難うございます。

何かご意見がありましたら、お気軽にまたコメント下さいね…。

コメント

お忙しい中貴重な時間を割いてお返事をいただきありがとうございます。丁寧に検討していただき感謝しております。

内容について触れる前に、まずはコウゲツさんに謝りたく思っています。それは、質問それ自体、私の純粋な気持ちから発せられたものではないという点についてです。

私は普段、それほど個人ブログを仔細に眺める人間ではありません。しかし、先日、私がチェックしていない間に読むに値するブログが多く誕生しているのではないかとふと思いたち、いろいろなブログサイトを見て廻りました。

ですが、結果は惨憺たるものでした。

いや、別に日記ブログや趣味ブログなど、様々なブログがあっていいと思います。けれども、中には個人の政治的な見解を発表するブログ、社会に対して提案することを意図したブログがあります。

今回の田母神発言問題や憲法9条問題1つをとってみても、肯定、否定様々な意見、見解があふれかえっています。しかし、個人ブログサイトで綴られ、公表されているものの多くは、論理性が欠落し、感情的な議論が先行したものばかりでした。

別に個人の感情的な思いを「私はこう思う」として表現することはかまわないと思います。しかし、中には、あたかもそれが論理的な帰結として導き出された見解であるかのように理屈らしきものを捏ね回し、また、全く関係のない議論にすり替え、自分の感情から湧き出る結論を無理やりに肯定するために長々と文章を書く、そうしたブログが存在しています。それも、非常に多く。

インターネットはテレビと同様に誰もが簡単にアクセスできます。そのような環境の下、読解力においていまだ発展途上の多くの人々が、大人たちの書いたこの類の文章に当てられ、感情的に影響されて思想を形成していくことを思うと、ふつふつと怒りが湧いてきたのです。

どのような見解や意見であろうと、演繹的に議論を積み上げて出された結論であるならば別にとやかく言ういわれはありません。感情から帰納的に導き出された結論であっても、論理的に筋が通っていればかまいません。そこからはそれぞれ批判が生まれ、時にはより発展的な結論が生まれるていくこともあるだろうから。

しかし、論理性の欠如した文章に対しては、非難することはできても、まともに批判することも困難になる。だから、個人ブログの場合、そこに明らかな論理性の欠如を見出したとしても、多くの人はなんら指摘することなくその前を素通りしていくでしょう。そのようなブログを相手にするのは時間の無駄ですから。

しかし、このようなブログが少数であるのであれば問題はないですが、そういう意味においてしっかりと練られたブログの存在のほうがはるかに少数派だというのが現状です。1つのブログにそれほどの力がなくても、集まれば強大な力となりえます。これは深刻な事態だ、と私には思えました。

・・・・以上を読まれると、ひょっとするとコウゲツさんを非難しているようにとられるかもしれませんが、決して、決してそのような意図ではありません。ただ、このように自分自身の意見を社会に発表することを営まわれている人々には、社会に向けて何らかの影響を与えるかもしれないご自分の文章、長期にわたってネット上に残されるご自分の文章と、もう少し対話をしていただければ、という思いは強くあります(対話というのは、自分の文章に質問をぶつけてみることです)。

コウゲツさんをはじめ、社会に対して広く目を向け、様々な事物に関心をもたれておられる人々は大変貴重で、社会に対して重要な役割を果たされている人々だと思います。このような人々が、論理的な議論、建設的な議論をしていけば、よりよい世の中にこの国が向かうための、大きな力になると思っています。

以上ような思いがあり、最初は通りすがりとしてした私のコメントに対してコウゲツさんからお返事をいただいたときに、感情を抑えることができずに、お手間を煩わせる迷惑な質問をしてしまいました。意地の悪い、面倒な質問をして申し訳ありませんでした。

長々と偉そうに書いて申し訳ありません。私も、感情に任せた根拠薄弱で筋の通らない発言をすることが多々あり、決して人に対して偉そうに言える身ではありません。また、コウゲツさんのように、社会に対して広い視野を持つことができないでいます。私もコウゲツさんを見習わなくてはならないと思います。

せっかく頂いたお返事に関してですが、私は憲法については多少うるさく、いただいた内容に触れるとまた意地悪な質問をしてしまいそうですので、1つだけ、「国民感情」というような客観性の乏しいもの(裏づけが困難なもの)を根拠にして議論を展開されることは証明性に欠けるのでおよしになったほうがよい、ということだけ申しておきます。

コウゲツさんは、おそらくは社会について真摯な目、誠実な心をお持ちだと考え、あえてこのようなお返事を書かせていただきました。何卒ご寛恕ください。

オサムっちさんへ

再度のコメント、有難うございます。
色々と勉強になります。

以下、逐一ご返事したいと思います。


> まず、国民感情により自衛隊は合憲であると解釈するとの事ですが、それは具体的に9条のどの文言を解釈されてのことでしょうか。
◆第2項の「戦力」についての解釈です。自衛隊は、「自衛のための必要な最小限度の実力行使」をするために存在し、かつ、この「実力行使」は、憲法でその保持を禁じた「戦力」には当たらないという解釈が、国民感情にもっとも合致するだろう、ということです。


> 次に、「自衛」の定義のあいまいさについて滔々と述べられておりますが、「自衛」の定義確定の問題と9条改正の是非の問題はどのように関連するのでしょうか。また、「『自衛とは何か』という国民的議論を惹起させなければ、話はちっとも進まない」とのことですが「話」とは何の話を指しておられるのでしょうか?

◆「自衛」の定義をはっきりしておかないと、改正論議自体が空疎なものとなり(つまり、話が噛み合わない。)、また、憲法9条が改正されて「自衛」の文言が盛り込まれた場合などに、今度は「自衛」の解釈について意見が分かれることにもなるでしょう。解釈問題に終止符を打つためには、「自衛」の定義を明確にしておくか、他の言葉で具体的に示すか、どちらかであるべきかと思います。明確な定義付けが必要であることの一例としては、ややずれるかもしれませんが、憲法96条の「過半数」があります。憲法改正に必要な「国民投票による過半数」の「過半数」の解釈が長い間ほったらかしにされていたわけでして、この「過半数」が有権者総数の過半数なのか、無効票を含んだ投票総数の過半数なのか、有効投票総数の過半数なのか、定義されていなかったのです。こんなことでは現実的に憲法を改正しようとなった時に頓挫してしまうというので、通称:国民投票法が昨年成立しました。
「話」とは、あるべき9条の姿についての議論のことです。基本的な用語の意義を共有できなければ適切な結論は導けないと思うのです。法律がいい例かもしれません。法律はは国民の権利義務に直接関係するものだけに、たいていは、第2条あたりに定義規定を設けて、解釈が分かれるのを回避しています。無用な混乱を防ぐためには必要なことだと思います。


>> 3つ目ですが、コウゲツさんは「日本人」のメンタリティーを9条改正反対の根拠とされておられます。一方で『神風特攻隊』や『葉隠』は「戦前の軍人」「明治以前における武士」という特定時代の特定階級の話です。この点に関して、まず、日本人と一口に言っても、実際には日本国籍を持つ人間は人種や民族、その他のバックグラウンドは多岐にわたり、そのメンタリティーも多様であると思われますが、「日本人」というものを一括りにしてメンタリティーを論じてしまうことは可能でしょうか。また、可能であるとして、「武士」や「神風特攻隊」のメンタリティーと「日本人」のメンタリティーを同一視することは可能でしょうか。

◆必ず例外というものは存在しますから、厳密な意味で一括りにすることは不可能でしょう。でも、おおまかに一括りにすることは十分に可能だと思っています。


>> 4つ目に、「恥の文化」と9条の問題はどのように関連するのでしょうか。

◆その点については、改めてじっくりと考察したいところです。記事において言いたかったのは、日本人は必ずしも自国民の安全や平和を絶対的な最優先事項と考える人ばかりではない、ということです。自らの安全のために理想のレベルを引き下げるというような行動を恥と感じる気持ちが、諸外国に比べたら強いのではないかということです。内に隠されて、自らも気付かないような心情かもしれませんが、日本人の心の深奥には、「より大いなるもののためには命をも犠牲にする」という精神が流れていると思います。9条改正によって現実との乖離は少なくなるかもしれませんが、反対に日本人のスピリットとの乖離が生じるような気がしてなりません。


>> 5つ目に、「憲法軽視の風潮を看過することは、極端な話、国民のアイデンティティー崩壊にもつながりかねません」とのことですが、「国民のアイデンティティ」とは何でしょうか。

◆アイデンティティーとは、自分が何者なのかという自己認識のことであって、精神面において自らが拠って立つところの根源的な認識であるともいえます。「日本人としてのアイデンティティ」と言うときは、それは対世界の関係で使う場合が多いと思います。この「日本人としてのアイデンティティ」の形成過程においては、憲法第9条の存在や唯一の被爆国であることに加え、ほぼ単一民族といっていい民族構成であること等も影響していることでしょう。「日本人としてのアイデンティティ」をあえて言い換えるなら、「日本人としての自尊心」ということになりましょうか。



それにしてもですね、
仮に憲法9条を改正して戦争や戦力の保持を認めることにしたとしても、国防という観点からは、大して何も変わらないような気がします。
もちろん、上述のように精神面では多大な影響があるように思いますが、国際的な力関係が変わることもない。

なぜなら、核兵器以外の戦力なんて、あってもなくても、
核兵器に対して無に等しいことに何ら変わりはないからです。

核兵器以外の戦力は戦争抑止力にならないわけだから、抑止目的の戦力保持はあまり意味がない。
かといって、実際に核兵器保有国から攻撃を受けた時に反撃できるかといえば、核を打ち込まれたら一巻の終わりですわ。

日本が軍隊を持つことになろうとも、現状がさほど変わるとは思えない。
相変わらず核の傘の下に入っている必要がありますからね。

そういう意味では、私の言うような精神論とは無関係に、「どっちでも変わらないなら、いっそのこと一切の武器を捨ててしまえ。9条との乖離もなくなるし。」というような意見がもっと出てもいいと思います。

まあ、極論かもしれませんが、一考、いや、半考ぐらいの価値はあると思いませんか…?

恐縮です

私のコメントを取り上げていただいて恐縮です。

コウゲツさんの意見を拝見させていただきました。コウゲツさんは「日本人」というものを高く買っておられるのですね。

さて、文章を拝見していて、いくつか疑問点が生じましたので質問させていただきたく思います。

まず、国民感情により自衛隊は合憲であると解釈するとの事ですが、それは具体的に9条のどの文言を解釈されてのことでしょうか。

次に、「自衛」の定義のあいまいさについて滔々と述べられておりますが、「自衛」の定義確定の問題と9条改正の是非の問題はどのように関連するのでしょうか。また、「『自衛とは何か』という国民的議論を惹起させなければ、話はちっとも進まない」とのことですが「話」とは何の話を指しておられるのでしょうか?

3つ目ですが、コウゲツさんは「日本人」のメンタリティーを9条改正反対の根拠とされておられます。一方で『神風特攻隊』や『葉隠』は「戦前の軍人」「明治以前における武士」という特定時代の特定階級の話です。この点に関して、まず、日本人と一口に言っても、実際には日本国籍を持つ人間は人種や民族、その他のバックグラウンドは多岐にわたり、そのメンタリティーも多様であると思われますが、「日本人」というものを一括りにしてメンタリティーを論じてしまうことは可能でしょうか。また、可能であるとして、「武士」や「神風特攻隊」のメンタリティーと「日本人」のメンタリティーを同一視することは可能でしょうか。

4つ目に、「恥の文化」と9条の問題はどのように関連するのでしょうか。

5つ目に、「憲法軽視の風潮を看過することは、極端な話、国民のアイデンティティー崩壊にもつながりかねません」とのことですが、「国民のアイデンティティ」とは何でしょうか。

以上、長々と質問させていただきました。勉強不足のゆえか理解が乏しく、恥ずかしく思っております。お忙しいこととは思いますが、ご教授いただければ幸いです。

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  • [2008/12/11 03:17]
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