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オサムっち様へ。 

真摯なコメント有難うございます。
ネット上の言論のあり方について改めて考えさせられました。

確かに、一昔前と比べて一般庶民の意見に触れる機会が爆発的に増えたことは事実ですし、
また、自分自身の意見を発する手段も豊富になりましたよね。

ただ、これが吉と出るか凶と出るかは簡単に結論が出せません。
何故なら、感情論に陥ってしまった挙句、誤謬や偏向が多分に含まれた浅薄な言論を垂れ流す輩に接する機会が増える一方で、
驚くほど冷徹に事物の本質を見極めた上で自説をブログ等で発信する人たちに接する機会も同様に増えたからです。

貴見に触れて自己修正の機会を得ることが出来たのも、ブログ等のコミュニケーション・ツールが発達したが故です。
オサムっちさんの憂慮も十分に理解できるところですが、
10万の愚迷な言説しか耳にできない状況と、990万の愚迷な言説及び10万の明瞭かつ怜悧な言説にアクセスできる状況とを比較すれば、私としては後者が望ましいと考えます。

年末ジャンボ宝くじの発売期限も12月19日(金)までと迫っていますが、宝くじを懐を顧みず買いまくるのは愚かなこと。しかし、資金に余裕がある限りは、10枚買うより1000枚買ったほうが賢明なのも事実。1等しかないのなら事情は異なりますが、1等から7等まであってしかも1等の前後賞や組違い賞もあるわけですから、多く買ったほうが利益率は高くなります。(多分。いや、経験上間違いないです…。)


さて、話は変わり、「国民感情」について述べさせていただきたい。

貴君は、『 国民感情というような客観性の乏しいもの(裏づけが困難なもの)を根拠にして議論を展開されることは証明性に欠けるのでおよしになったほうがよい、ということだけ申しておきます。 』と述べられておりますが、物理学等の分野ならともかく、一般的には裏づけが困難だからといって論を控えていては人は何も言えなくなってしまいます。

確固たる裏づけで担保され得ない中で喧々諤々の議論を戦わせる内に真実が明らかになってくる、というようなことが世の常なのではないでしょうか?

卑近な例をとれば、フィギュアスケートのグランプリファイナルで優勝した浅田真央選手の演技の採点に対する日本人の反応を挙げることができます。テレビで解説をしていた伊藤みどり氏の言葉にも何らかのバイアスがかかっていたであろうに、視聴者の大半はその言葉を鵜呑みにしてしまっているようです。でも、かなり困難かもしれませんが、いずれ矯正されることと思います。スケート経験者にしか理解しにくいという制約はありますが、スケート経験者がみな全うな判断を下せるとも限りません。浅田選手の演技を解説した伊藤みどり氏について言えば、ジャッジの不公正に対する伊藤氏の言葉はそれなりに説得性があります。しかし、芸術性を最後まで評価されなかった彼女がキムヨナを完璧に評価できるとも思えないのです。渡辺絵美、佐野稔、カタリーナ・ビットあたりの時代からフィギュアスケートを見続けた私としては、伊藤みどり氏がキムヨナの演技を正当に評価できるとはどうしても思えません。無意識に技術偏重になっている可能性は否定できません。それを指摘する意見がわずかでありますが、ネット上になくはないのです。

いくつかのネット掲示板では採点の不公正をかなり辛辣に批判しています。
でも、私に言わせれば、スピードの面では明らかにキムヨナが一枚上手ですし、表現力も浅田真央より断然勝っています。
トリプルアクセルを二度成功させた浅田真央が優勝するのは当然だとも思いますが、2位のキムヨナとの点差がさほど開かなかったことについては、さほど異議を唱える気持ちが起こりません。浅田真央の表現力はまだまだですし、キムヨナに比べればスピード感は圧倒的に乏しいです。
そして、回転数達成の上での転倒よりも回転不足が低評価されるという採点システムを考慮しても、浅田とキムヨナの点差は一応は納得できます。

ところが、トリプル・アクセル、トリプル・ルッツ、トリプル・フリップの違いさえ分かっていない輩がジャッジの採点の不公正を得意気に批判しているのが現状。韓国憎しの感情に押し流されて、いい加減な演技評価が垂れ流されているのには辟易します。このフィギュアスケートの件については、誤謬に満ちた意見が蔓延していると言っても過言ではないでしょう。憂慮せざるを得ませんね。


でもでも、日本人であっても、一部の人はキムヨナの実力の高さを正当に評価しています。
ジャンプの質やスピード感や表現力をちゃんと見ているのす。

今後も議論が戦わされることでしょう。かなり激しい議論が。
終局的な解決がいつなされるのか見当もつきません。



これでいいんだと思います。
「国民感情」もそうです。

演繹的・帰納的に、また、例証をもって証明できなくても、特に問題はない。
浅田真央選手の演技の対キムヨナ優位性をどうやって証明できるというのか?

科学的に証明できるのはごく一部の事象に過ぎません。
証明などしようもないという事象が大半を占めています。

そのような状況で、気ままな私見を述べたからといって何の罪がある?
罪はない。とにかく、もっと語れ。



コメント

オサムっちさんへ

色々重なって、てんやわんやの状況となっておりまして、なかなかご返事することができずにおります。

ゆっくり考えた上で返信したいと思い、筆が遠のいているだけですので、いずれコメントしたいと思っています。

大晦日までには書けるかな?

せめて、一言だけ問題提起的に申し上げます。

右の頬を叩こうとする者がいた場合、叩かれないように全力で防御するか、先んずれば人を制すでいくか、聖書的に左の頬を差し出すのか、

議論によってそのどれが望ましいかの結論を出す必要があるとするならば、

論理的整合性や証拠だけでは、どうしても足りないと思われます。

では、何が必要か?
そして、そもそもその作業は、相対的真理として妥当なものを選びとるというスタンスで行うべきなのか、それとも絶対的真理に少しでも近づこうというスタンスで行うべきなのか。

この辺についての私見をゆっくり述べたいところなのですが、

ああ、もう出かけねばならないので筆を擱かせていただきまする。すみません、中途半端で。

1つ言い忘れたので付け加えさせていただくと、個人の価値観や人生哲学に基いて社会問題を論ずるのではなく、社会問題を題材としてその価値観や人生哲学それ自体について論ずるのであれば、それは高次の段階に発展的に止揚する可能性を秘めたものと言えるでしょう。

Re;オサムっちさんへ。

お返事、読ませていただきました。ありがとうございます。
実はコメントを書きこませていただいた後、何回かこちらに伺っていたのですが、しばらく新しいエントリーがなかったので、もしかするとコウゲツさんはブログから手を引かれるかもしれない、少し感情的に厳しく書きすぎたか、と懸念しておりました。
お返事をいただけて一安心です。

さて、
>推論の土台となる根拠が最大限示され、
>かつ、議論の土台となる論理構造も申し
>分のないものだとしても、それだけでは
>高次の段階に止揚され得ないような事象
>も相当に多く存在すると思われ、その場
>合については、安易な「感情論のみの応
>酬」もそれなりの存在価値があるのでは
>ないでしょうか?
>訴訟におけるような、事実認定が最重要
>視される場面では、「議論の土台となる
>根拠や、議論の土台となる論理構造の
>検証」が極めて大事でありますが、「野
>良猫に餌をやるべきか否か」、「自殺は
>罪か否か」、「派遣社員の切捨ては酷い
>行為なのか否か」などという議論におい
>ては、個々人の持つ倫理観や人生哲学
>を互いに戦わせていく中、タイミングや影
>響度はそれぞれだろうけども、総体的な
>意味において人々の悟性が止揚されて
>いくと思われます。



という点ですが、まず前段について、論拠(根拠)の詳述や隙のない論理構成がなされている場合には、すでに感情論の応酬とは呼べないと思われますが、これは、単なる感情論にも存在価値が認められる場合もあるのではないか、ということでしょうか。

後段に関してですが、根拠(論拠)の詳述が求められるのは帰納法的推論の過程においての話です。つまり、それが刑事訴訟であれ、学術論文であれ、評論であれ、エッセイであれ、客観的な証拠に基いて論ずることで自らの見解が普遍的(一般的)妥当性のあるものであることを証明することを目的にして議論が構成、展開される場合に、それを説得力あるものにしようと思えば、根拠(論拠)の詳述が要求されることになります。

また、論理というものは他者に自分の見解を理解して納得してもらうための、いわば道具のようなものだと考えられます。したがって、その道具をうまく使いこなそうとすれば、道具の使い方に慣れるために多少の意識的な訓練が必要です。また、論理を用いずに意見を述べることも可能ですが、その場合、感情に訴えて共感を得る文章を書くことは可能かもしれませんが、相手の理性による理解、納得を望むことは難しいでしょう。また、論理の使い方を誤ると相手に伝わらなかったり、場合によっては他者を誤解させる危険性があるというのは先に指摘したとおりです。

自らの個人的な人生哲学や価値観に基づいて意見を述べることについては、例えば、それが法律に反するとか、公序良俗に反するとか、他者を害するのであれば別ですが、通常の場合において私がとやかく言う権利も義務もありません。また、それが高次の次元に発展するのかどうかは別として、異なる価値観や人生観をぶつけ合う中で新たな価値が生じたり、また、それぞれが変容していくこともあるかもしれません。

ただし、私はあくまでも「価値(観)は相対的なもの」であり、立ち位置が変われば物事のとらえ方も変わるのであり、1つの視点や立場から絶対的な正当性を主張すべき類のものではないと考えております。また、社会における多様な価値観の存在こそ、その社会を構成する人々の幸せにつながるという考えを持っています。ですから、確かに、社会において異なる価値観同士が衝突することは避けることができないものですが、自らの価値観を強引に押し付けようとするのではなく、できうるかぎり自己完結的に主張するにとどめ、異なる価値観に対しては寛容を持って当たるべきだと私は考えています。したがって、「自己肯定の手段としての他者否定」としての感情論の応酬については、ここでも私は否定的な立場です。

しかし、その一方で、例えば、経済の総合的な発展のために貧富の格差を容認するアメリカ型自由資本主義と、できうるかぎり平等であれとする北欧型社会資本主義のどちらのような社会に日本は向かうべきか、有限な資源の配分をどのように行うかという問題などのように、価値観の対立を避けては問題の解決にたどり着かない場合もあります。もちろんこのような議論においても社会科学的な見地から議論されることを主とすべきですが、場合によっては感情論の応酬になろうとも、議論を絶やすことなく時間をかけて検討していかなければならない問題だと考えています。

また、「野良猫に餌をやるべきか否か」、「自殺は罪か否か」、「派遣社員の切捨ては酷い行為なのか否か」のような個人の価値観にとどまらず、社会問題としての側面から論ずることのできるトピックについて、まずは個人的な価値観に基づいて声を上げていくことは社会にとっても大切なことだと思います。なぜなら、社会問題を社会問題たらしめているのは、その根底にそれを問題としてとらえさせている価値観(問題意識)が存在すると考えるからです。ある事象を人間社会の中で社会問題として認定し、解決の対象とするためにも、問題意識を持つ者が積極的に声を上げて問題として取り上げていかなくてはならないでしょう。ただし、この問題を実際に解決しようとすれば、感情論にとどまっていることはできず、やはり専門的な見地が必要となってくるでしょうけれども。

前段の問いについて、私が即座に思いつく存在価値のある感情論(ここでは価値の正負は問わない)を挙げるとすれば、表現行為それ自体を目的としたもの(自己実現欲求の解消やコミュニケーションなど)、テレビ番組のトークショーなど議論を第三者に見せること自体を目的とするもの、個人・大衆心理の操作・扇動、その他心理的な影響を与えることを目的としているもの、くらいでしょうか。よく考えればもっと出てくるかもしれませんが・・・。

以上、長々と書かせていただきましたが、回答になっているでしょうか。
コウゲツさんには、今後ともその好奇心と関心の広さで、社会に声を上げていっていただきたいと思います。

オサムっちさんへ。

私の記事の最後の方、なんだか挑発的な書き方になってしまっていましたね。
そんなつもりはなかったのですが、そのように受け取られていたのでしたらごめんなさい。

私の他の記事も幾つか読んでくださいましたようで、有難うございます。
ご指摘の点については概ね素直に耳を傾けようと考えております。
特に、論理的な文章作成が徹底できていないという点については、半ば確信犯的な部分もあったようにも思い返しますが、とにかく、今後はもう少し注意を払っていこうと反省しているところであります。

フィギュアに関する部分については、「卑近な例」が新しすぎたのが問題でしたね。喧々諤々の議論の末にどのような結論に収束していくのかは、まだ分かりませんからね。

反省しきりなわけでありますが、一点だけ反論を許して欲しい。
貴君は、「このような見解からは議論は成立せず、決して高次の段階に発展的に止揚される事はありません。なぜなら、推論の土台となる根拠や、議論の土台となる論理構造の検証が最初から放棄されているからです。」と言われましたが、

推論の土台となる根拠が最大限示され、かつ、議論の土台となる論理構造も申し分のないものだとしても、それだけでは高次の段階に止揚され得ないような事象も相当に多く存在すると思われ、その場合については、安易な「感情論のみの応酬」もそれなりの存在価値があるのではないでしょうか?

訴訟におけるような、事実認定が最重要視される場面では、「議論の土台となる根拠や、議論の土台となる論理構造の検証」が極めて大事でありますが、「野良猫に餌をやるべきか否か」、「自殺は罪か否か」、「派遣社員の切捨ては酷い行為なのか否か」などという議論においては、個々人の持つ倫理観や人生哲学を互いに戦わせていく中、タイミングや影響度はそれぞれだろうけども、総体的な意味において人々の悟性が止揚されていくと思われます。

「いかにももっともらしい言説にふれ、「(よくわからないけど)ムカつく」「(よくわからないけど)その通り」というような形で、彼らの中に結論のみが刷り込まれていくことを恐れずにはいられません。」という貴君の意見には死ぬほど同意いたしますし、私がそれに加担することのないように十分に気を付けようと思うところでもありますが、ここまでインターネットが発展してしまうと、この状況を憂慮するだけに終始するのも無責任なように思います。

私には無理かもしれませんが、オサムっちさんのような頭脳明晰な方であれば(おせじではありませんよ。)、ブログ等のツールを用いて世間に積極的に警鐘を鳴らしていって欲しく思います。

私のブログへのコメントは大変感謝しており、オサムっちさんの憂慮を引き継いで、その解消に一役買いたいとも思うのでありますが、オサムっちさんにも頑張ってほしいです。

うーん。
以上の書き込みも論理展開が怪しいかもしれぬ。


オサムっちさんのような人、私は大好きです。
なんて言ったら、手加減してくれるかな?

でも、貴君のような人に対して満腔の敬意を表したいという気持ちは本当です。
貴重な時間を費やして苦言を呈してくださった貴君に心より感謝いたします。

もし気が向きましたら、また当ブログに遊びに来てくださいね…。

  • [2008/12/21 02:54]
  • URL |
  • コウゲツ(管理人)
  • [ 編集 ]
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ご返事させていただきます

私個人に対して1つのエントリーを割かせてしまって申し訳ありません。やはり、あのような愚かな質問コメントをせずに、そのまま通り過ぎておくべきでした。

私はブログやネットの発達を否定しているわけではありません。多様な意見が交わされることはとても望ましいことだと思っております。コウゲツさんがおっしゃるように、1%のすばらしい見識に触れることができる機会が生まれることは、メディア・リテラシーや文章読解能力が成熟した人間にとっては喜ばしいことです。それはそうなのですが、私が危惧しているのは、先のコメントでも申し上げたとおり、メディア・リテラシー、読解力に関して、いまだ未成熟段階にある人々のことです。彼らにとっては玉石混交のなかから、何が玉で、何が石なのかを見分けることも、なかなかに困難な作業です。そんな中、いかにももっともらしい言説にふれ、「(よくわからないけど)ムカつく」「(よくわからないけど)その通り」というような形で、彼らの中に結論のみが刷り込まれていくことを恐れずにはいられません。例えば、実際に憲法改正の国民投票の場面となった場合を考えても、彼らの政治的意思決定に大きな影響を与えるのではないかと考えてしまいます。

・・・このようなことをコウゲツさんお一人に向かって述べても意味のないことですが、そのことを踏また上で、前回のコメントを書かせていただきました。

しかし、
「そのような状況で、気ままな私見を述べたからといって何の罪がある?」
「罪はない。とにかく、もっと語れ。」
と私個人宛のエントリーの中で言われたまま放っておくこともできないので、再度返信させていただこうと思います。語り合うことは私も大賛成です。けれども、インターネットが公共の場であることを少しはわきまえるべきではないでしょうか(書いていて虚しくなりますが)。

失礼ながらコウゲツさんの文章に関して言わせていただくと、例えば、ご自身の見解を敷衍するために出される例示などは、今回の宝くじ、フィギュア・スケートの例もそうですが、どうしても首を傾げざるを得ません。

1つフィギュアスケートの記述を例に取ると、

「確固たる裏づけで担保され得ない中で喧々諤々の議論を戦わせる内に真実が明らかになってくる、というようなことが世の常なのではないでしょうか?」

の後に、「卑近な例として、」としてスケートの話をされています。上記の文章が敷衍されるのですから、読み手としては「喧々諤々の議論を戦わせるうちに真実が明らかに」なった例が以下にくるのだな、と考えて以下を読みます。ところが、挙げられた例は、結論として「今後も議論が戦わされることでしょう。かなり激しい議論が。終局的な解決がいつなされるのか見当もつきません。」として終わっており、「真実が明らかに」なる部分が出てきません。これではさっぱり結論の文章が敷衍されておらず、文章として成立していない。単なる話のすり替えとしかとらえることはできません。だから、次文に「『国民感情』もそうです」と言われても???となります。しかし、読解力がいまだ発展途上の読み手は「よくわからないけれど、なんかこの人の言っていることは正しそうだな」として受けいれてしまうかもしれません。

上記のように結論と理由付けが全く合致しない文章が、私が拝見した二、三のエントリーだけをとってみてもいくつも散見されました。他にも、「私はこのように思う(結論)。なぜなら、そう思うからだ(理由)」と言っているようにしか取れない、普通なら2,3行で終わるような「結論←理由」ではなく(結論=理由)と言う構造の文が、数行にもわたって延々と書かれているような文章もありました。これは、書かれている内容以前の問題です。

上記のような論理性に関しての問題だけではなく、内容に関しても疑義があります。コウゲツさんは今回のエントリーの中で、「科学的に証明できるのはごく一部の事象に過ぎません。証明などしようもないという事象が大半を占めています。」とおっしゃっておられます。確かにそれはその通りですが、帰納法的推論からなる文章の場合、学術論文はもちろんのこと、それが評論であろうがエッセイであろうが社内文書であろうが、自分以外の人間に公開することを前提に書かれた文章においては、根拠として挙げられている素材について詳細に検討を加えるのが普通です。というか、その点に一番力が注がれます。ネット上でも、優れた(普通の?)書き手はリンクを張るなどして必ずその部分に配慮するよう努力しています。しかるに、拝見したコウゲツさんの文章にはその努力が全くと言っていいほど感じられません。例えば、どんなに怪しいTV番組であっても「国民感情」を根拠にあげる場合には、それを裏付けるために、最低限度、街角インタビューやアンケート結果を示すようなことをして根拠としての証明力を高める努力をするのはご存知の通りです(この場合、インタビューやアンケートの手法が統計学上適正かどうかという別の問題が新たに生じますが)。

何度も申し上げますが、共感を得ることを目的にして、個人の意見を意見として述べることを否定するつもりは全くありません。また、説得や納得、批判を目的にしてなされる、論理的、建設的な議論も大賛成です。問題なのは、他者を説得もしくは批判することを意図した内容であるととれる、にもかかわらず、それがあたかも論理的に導出された結論であるかのように装って、感情的な見解が述べられることです。このような見解からは議論は成立せず、決して高次の段階に発展的に止揚される事はありません。なぜなら、推論の土台となる根拠や、議論の土台となる論理構造の検証が最初から放棄されているからです。こうなると、対話の中身は感情論のみの応酬に陥ります。どちらがより扇情的かどうかを競うだけです。努力のいる前者(根拠に関しての詳述)はともかく、せめて、ご自分の配慮で解決できる後者(論理的な文章作成)の問題については注意されるよう心掛けたほうがよいのではないでしょうか。

貴方は「憲法9条の改正の是非について」のエントリーの中で、「書いたことには責任を持ちます」と述べておられます。けれども、ひとたび文章が公表されれば、それは筆者の手を離れて一人歩きしていきます。匿名性のネットの世界で、どのようにして責任をとるというのでしょうか。責任を取るというのであれば、まずは掲載する文章に関して責任を取られるべきではないでしょうか。

・・・・・と、ここでコウゲツさん一人に吠え立てていても虚しいばかりです。一人一人のメディア・リテラシーや読解力、論理的な思考能力、文章作成能力等の向上がなければ、既に生まれてしまったネット文化コミュニティーの健全な発展は望めないのですから。コウゲツさんは語彙や知識に関しては十分な量を備えておられるように見受けられます。あとはご自身の文章に対する姿勢だけだと思うのですが。

長文、失礼いたしました。

(以上はコウゲツさん個人に宛てて書いております。公開、非公開はご判断にお任せします)

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